ります。(間)消えたように無くなったのか、始めから此処に居なかったのか、人々は互いに審《いぶか》り合うほどに、素早く身を隠してしまったのでござります。いきり立っていた館の殿様はじめ、騎士、音楽家の人々は、一時に静まり返りまして、胸に手をあてて彳《たたず》みました。――先刻までの物凄まじき喧騒の後が、氷のような底冷たい、神秘がかったこの沈静でござります。(間)人々は四方を見廻し、また自分の影を見詰め、そして物音を聞き定めようと耳をすましました。――人々の心の中に、この時老人を怪しむ念が、稲妻のように閃めいたのでござります。……その時でござります!
女子 ええ。
従者 若様が虫のような声でお嬢様の名をお呼びなされました。
女子 あの私の名を!
従者 はい、お嬢様のお名をお呼びなされました。そして胸にさしておられました鈴蘭の花を差し出して、お嬢様へと申されました。(と従者、凋《し》おれし一枝の鈴蘭の花を女子に渡す、女子無音に受け取り、唇にあつ)
女子 若様、若様!
従者 人々は始めてこの時、仆《たお》れている若様に気づいたのでござります。
女子 若様!
従者 人々は顔色を変え叫びを上げ、一時に若様の傍へ集って、そのお顔を眺めました。噫! 若様のお顔は青褪め果てて、死んで行くべき相となっておりました。
女子 若様!
従者 『若を殺したは誰れぞ!』とお殿様のお怒りとお悲しみの叫び声……一同の騎士、音楽家の方々は、ひれ伏してしまいました。(間)すると若様は青ざめた唇を震わして、聞きとれぬ程の虫の声で、「死に行く人魚」の歌を歌いました。
女子 「死に行く人魚」の歌を!
従者 その歌の一節を歌い終わると、急にお怒りの相を顔に見せ、苦しい声で『盗める曲に何を与う!』と叫んだのでござります。
女子 盗める曲に何を与う。
従者 そして若様は、片手をあげて窓を指し、最後の息でこう申しました。『北の国の魔法使い、「死に行く人魚」の歌を歌う』
女子 若様! ええ、ええ。
従者 後はもう申し上ぐるまでもござりませぬ。堂内の騎士、音楽家は、あるいは窓口に向かって立ち、あるいは高殿に馳せ昇り、外に通ずる廊下に急ぎ、百方怪しい老人の魔法使いをさがしましたが、それらしい者の影もござりませぬ。さがしあぐんで騎士、音楽家の方々が、旧《もと》の広間へ立ち戻って来た時には、屍となられた若様をとりかこみ、小供等の
前へ 次へ
全77ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング