歌が、あの時私の耳へはいって、私を正気づけたことは、ほんとに違いはないけれど。(小声にてその歌を歌う)

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屍には白き藻草を着せかけん、
眼の閉じし面には
かぐろき髪の幾筋と、
鈴蘭の花をのせておく。
[#ここで字下げ終わり]

何故この悲しい歌が、私を正気に返らせたのか、私には解らない。
使女A あの怪しい老人の歌った厭な歌に、歌い勝ったと申すのではござりますまいか。
使女B 老人の歌った歌を、お嬢様は今でも覚えていらっしゃりますか、血が泣くような厭な厭な歌。
女子 (小声にて歌う)

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短い命が暗《やみ》に沈む
紅い薔薇のあざ笑い、
罪が楽しい戯れと
思う時の人心、
それが暗の紅き薔薇。
[#ここで字下げ終わり]

ほんに厭な恐ろしい歌だこと。ただ歌ったばかりでも、深い深い罪の洞へ引きこまれるような気持ちがする。……だがまた何んだかなつかしい[#「なつかしい」に傍点]、恋しい思いの湧き起こるのは不思議じゃないか、丁度|人眼《ひとめ》を忍んで媾曳《あいびき》する夜の、罪と喜びとの融《と》け合った、その恋しさがこの歌の調子に似ているぞえ。――そしてこの歌は、どうしても嘗《まえかた》どこかで聞いたことがあるように思われる。
使女A 北の国の浜辺でお嬢様へ、紅い薔薇の花をお渡しなされた、若い美しい音楽家が、歌ったのではござりませぬか。
女子 (手を軽く拍ち)ほんにそう云えばその通り、たしかに其処で聞いたに違いない、魔法の光り物のようなあの人の瞳が、私の瞳を引きつけている間に、お歌いなされた歌に相違はない。どうしてお前はそれを知っているの。
使女A 知っているのではござりませぬ。何事でもお嬢様のお心を強くひきつけるいろいろの事件は皆、その人がなされる仕業のように思われますので、それでそう申し上げたまででござります。(女子黙して考える。二人の使女も黙す。月光やや暗くなり、海上に白き影浮かぶ)
女子 白いものが海の上に浮いて見える。音楽堂の下の岩陰からだんだん此方《こなた》へ動いて来る。
使女A 夜を遊ぶダイヤナと申す水鳥でござります。
女子 ダイヤナにしては形が大きすぎるじゃないか。私にはどうやらあれも[#「あれも」に傍点]、悪い兆《しるし》のように思われるぞえ。
使女B いいえ、水鳥の列でござります。ダイヤナはよくあのように列を
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