りました、(間、四方を眺め)丁度、今夜のような。(海の遠鳴聞こゆ)
女子 (四方を見廻し)体《からだ》がぞくぞくと寒くなって参りました。恐いお話でござりましたこと。……ほんに今夜は気味の悪い晩でござりますこと。……そして、何者か、迫って来るように。……
公子 あの晩は丁度今夜のように、室には燈火一つ無く、窓の外ばかりが青海の底のように冴え冴えとした沈んだ光で取り巻かれておりました。じっとしていると、何者か背後から迫って来はしないかと思われて、そっと振り返って見たいような、おびやかさるる晩でござりました。丁度今夜のように……
女子 (卒然と背後を振り返り)ああもう、そんなことはおっしゃらずにいて下さいまし。私はもうもう、気絶しそうに思われてなりませぬ。……あのそして、それからお母様はどう遊ばしたのでござります。お母様の運命が早く知りたいように思われてなりませぬ。……そして何んとなく、私の運命が、貴郎のお母様の運命と似ているように思われますのは、どうしたものでござりましょう。……ただ何んとなく、そのように思われますのは……。
公子 同じような誘惑が、振りかかっているからではござりますまいか。(四方を見)ああ、如何《いか》にも今夜は、あの晩によく似た晩でござります。(梟の啼き声聞こゆ)あれ梟も啼いているではござりませぬか。
女子 (胸に手をあてる)悪い運命を導いて来るような厭な鳥の声でござりますこと。……そして今夜に限って、あのように啼いている。……お母様はそれからどう遊ばしたのでござります。若様。
公子 母の姿が岩の頂上に立ったのを窓越しに見たのが、最後の眺めでござりました。(間)翌日、母の白い屍は、海の面に浮いておりました。あおむき[#「あおむき」に傍点]に水に浮いている様子が人魚そっくりでござりました。(間)鴛鴦の浮くべき海の上に、人魚の屍が浮かんだのでござります。(間)恐ろしい誘惑ではござりませぬか。(間)紫の袍を着た、桂の冠をかむった、銀の竪琴を持った騎士姿の音楽家が誘惑の主でござりますぞ。
女子 私は……そのお話を聞いております中に、何んだか自分の運命が、間近に迫ったように思われて参りました。(入口をすかし見て)私にはあの入口の背後に、騎士姿の音楽家が彳《たたず》んでいるように思われます。あの扉が今にも開いてその人が、光り輝く魔法の瞳で私の眼をひきつけはしない
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