らなく思うのでもなく、もっと高い感情でござりました。まあ云って見ますれば、形のない憧憬とでも申しましょうか、ただ心が或る美しい幻影を描き出し、その幻影を捉えようとあせるのでござります。
公子 (熱心に)その幻影と申すのは恋のことではござりませぬか。
女子 さようかも知れませぬ。(間)あの時の感情は、今思うたとて、とても思い出せるものではござりませぬ。(間)娘はただ恍惚として自分の影を見詰めておりました。(やや長き沈黙)そうすると、自分の影と並んで一人の男の影が砂の上へ映りました。娘は驚いて振り返りますと、若い騎士姿の音楽家が娘の直ぐ傍に立っているではござりませんか。(間)娘は一眼その姿を見て、心の中で「待っていた人影」ではないかと思いました。
公子 (忙はしく)その騎士姿の音楽家が、紅い薔薇の花を娘に送ったのではござりませぬか、その音楽家が。
女子 (頷き)紅い薔薇の花をくれる前に、その人は銀の竪琴で長い曲を弾きました。それは短嬰ヘ調で始まる「暗と血薔薇」の曲でござります。(公子思いあたると云う風をなす)それを聞いている中に、娘の心は夢よりも幽になり、意志も情も消えてなくなり、ただ一つ所をじっと見詰めていたのでござります。
公子 何を見詰めていたのでござります。
女子 見詰めていたのではなく、引きつけられていたのでござります。その証拠には、その一つ所から視線を外《はず》そう外そうとあせっていたことを娘は今でもはっきり[#「はっきり」に傍点]と覚えているのでも解ります。
公子 何に引きつけられていたのでござります。
女子 恐ろしい魔法の光り物……。
公子 それは何でござります。
女子 恐ろしいものでござりまする。
公子 ただ恐ろしいものだけでは私には解りかねまする。
女子 その騎士姿の音楽家の恐ろしい眼でござります。(間)その恐ろしい魔法の光り物がその人の眼だと気付いた時は、娘の体は音楽家の両手の中にありました。
公子 (せわしく)両手の中に。
女子 (公子を止めて)音楽家の両手の中にありました。けれども体が両手の中に在ったと申しますのは、決して体をまかせたと申すのではござりませぬ。
公子 そんならその娘は、今でもなお清い体でござりますな。
女子 はい、その娘の体は、今もなお鈴蘭のように清い体でござります。(悲しげに、また恋しげに)、けれども遂にはその音楽家の両手に抱
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