いつぞや二人して、河添《かわぞ》いの牧場《まきば》を歩いておりました時、乙女等の摘み残した忘れな草[#「忘れな草」に傍点]があったのを、私がそっと摘み取って、貴女《あなた》の髪へさしました所、貴女はいつの間にか取り棄てておしまいなされました。その時私の悲しさはどのようでありましたろう。うるんだ眼から流れ出た二筋の熱い滴が、頬を伝ってその時忘れな草[#「忘れな草」に傍点]に散ったのを見ましても、知れるわけではござりませぬか。
女子 そのように一々おっしゃらずとも、とうから貴郎のお心はよう存じておりまする。……がもうもう、何もおっしゃって下さいますな。おっしゃられれば胸の苦しさが増すばかり、また貴郎に致しましても、そのようにおっしゃって、私の心を苦しめますのは、ほんとに私を愛して下さる、お志にも戻《もと》ると申すものでござります。
公子 云うなとおっしゃれば、もう一言でも云いは致しませぬが、その代り、せめてこの花を、その彫刻のような美しい手で、お受けなされて下さりませ(と深山鈴蘭の花束を出す)。白木《しらき》の戒名よりも淋しい花ではありますが、貴女のお手に取られたら、白い花も紅に見えましょう。
女子 (花をしりぞけ)谷に咲いておってこそ、いとしい花でござります。何んの私が手に取りましょう。
公子 自然は冷酷でござります。人肌はなつかしいものでござります。いつまでこの花を、冷酷の自然にまかせて置けましょう。(と花をさしつけ)さあ早くお取り下さいまし。
女子 (暫時沈黙。やがて、淋しく悲しき嘆息。遂に胸にさしたる紅の薔薇花を取り、公子に示し)噫! 貴郎のように心の清い方は、恋の送り物をなさるにも、深山鈴蘭のような、清く淋しい野生の花を、花束にして送ります。そのお心に対しましても、私は貴郎にお従い申さねばならぬのでござりますが(と薔薇を唇にあて)、これごらん遊ばせ、この紅の薔薇の花が、いつの間にか私の胸に咲いてでござります。白い花と違い紅い花は、色から艶から匂いから一倍勝れて見えまする。私の心は、とうからこの紅い薔薇の花に、ひきつけられているのでござります。(悲しげに)そしてそれが、恐ろしい程、私には強い執着でござります。
公子 (失望して深山鈴蘭を床に投げる)いつも深紅の薔薇の花が、貴女の胸にさしてある故、どうしたわけかと思っておりましたが、もし迂闊《うかつ》に聞いて、口惜
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