ああ、またそんなことをお思い出しなされましたな、それは過ぎ去った罪ではござりませぬか。お思い出しなされぬに限ります。(独白の如く)音楽堂などを、お立てなされたのが、お心得違いのように思われる。あれが立っている限りは、お殿様のお心は、前の奥様から離れることは出来ぬのだ。云ってみれば、あの音楽堂は、お殿様へ、古い傷の痛みをいつまでも思わせようと、立っているようなものだ。(気を取り直し)で、あの音楽堂と、館へ参られた女子と、何か関係でもあると申すので、ござりますか。
領主 女子と関係があると云うよりも、女子の上にふりかかっている悪運命と、関係があると云った方が的中《あた》っている。
従者 それはまた、どう云うわけでござります。
領主 前の妻をたぶらかした、憎い恐ろしい誘惑が、この度の女子にもかかっていて、女子の心はその誘惑に捉われている。(間)誘惑に捉われているばっかりに、女子は俺の心に従わず、俺を愛さず、絶えず元の淋しい荒海の衰え果てた浜を慕っているのだ。(沈黙)けれども、いよいよ明日の晩には、あの音楽堂の競技場で、一切が現われ総てがかたづくだろう。
従者 一切が現われ総てがかたづくとはどう云うわけでござります。
領主 女子をまどわす、誘惑の本体が現われると云うことさ。(心配気に)女子の心が俺の方へ従うか、誘惑の主に従うか、総て、明日の晩、あの音楽堂の中で決定《きま》ると云うことさ。
従者 明日の晩、あの音楽堂で、お殿様が諸国へふれ[#「ふれ」に傍点]を出して呼び集めた名高い音楽家が、各自《めいめい》お得意の音楽を奏するのだとは聞いておりましたが、それが誘惑の主を現わす手段《てだて》であるのでござりますか。
領主 その通り。諸国から集った音楽家の中に、めざす悪魔がいる筈だ。
従者 どんな姿をしておりましょう。
領主 紫の袍を着て、桂の冠をかぶり、銀の竪琴を持った年の若い音楽家で、騎士よりも気高い様子に見えると云うことだ。そして其奴《そやつ》の好んで弾く曲は、短嬰ヘ調で始まる、「暗《やみ》と血薔薇」と云う誘惑の曲だと申すことだ。
従者 紫の袍を着て、桂の冠をかぶり、銀の竪琴を持った年の若い音楽家でござりますか。
領主 (頷き)そういう風をした音楽家が女子の心をとらかして、不貞の罪を犯させる誘惑の本体だ。
従者 どうしてお殿様は、たしかにそうだとお気づきなされました。
領主
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