。
領主 (昂奮して)そうだ、あの不貞の妻に似ていたからさ。
従者 御前様。
領主 不貞の妻だが恋しい女だ。あの女のことを思えば、身も心も消えて行きそうだ。(と思慕の情に耐えざる様子)
従者 御前様。
領主 (その当時を思い出し、声も瞳も力を増す)以前の妻と一緒に住んでいた頃は、俺もお前も若かった。
従者 (なつかしそうに)十年前でござりました。
領主 俺には昨日のように思われる。けれどもまた、この世ではなく、他界の消息のように思われる。ああ、思ったとて考えたとて、二度と再び、あんな幸福の日は送れないと思えば、あの頃の生活が、追いすがって引き止めたいようだ。
従者 私もそんな気がいたします。
領主 十年以前と云えば俺もこんなに衰えてはいず、お前もそうまで年を取ってはいなかった。(間)彼女《あれ》と俺とは(と窓を通して音楽堂を見る)今音楽堂の建っている対岸の岩の上に、小城のような家を構えて住んでいた。そこには水晶のような水を吹き出す噴水も、レモン薔薇の咲き乱れる花園もあった。宵毎に花園には露が下り、虫がその陰で鳴いていた。朝毎に小鳥が囀《さえず》り、柑子レモンの花が小鳥の羽搏《はばた》きで散り乱れた。そして音なく窓にとまり、妻はその花弁を唇に含んで、俺の唇へ口渡しに移してくれた。その時妻の金髪は恋しさにふるえ、妻の眼はしばしも離れずに俺の瞳を見詰めていた。
従者 奥様はバイオリンの妙手でございました。
領主 そうだ、それが何よりも俺の心に残っている。彼女《あれ》はバイオリンの妙手だった。紅宝玉と貴橄欖石とで象眼したバイオリンは、いつも彼女の腕に抱えられていた。
従者 (なつかしげに)奥様は花園を見下ろす窓に倚《よ》って、いつもいつも哀れっぽい歌をお弾きなされました。(間)花園の彼方は底の知れぬ青海で、奥様は人魚が波間に見える見えるとよく申されました。
領主 彼女が歌った歌は、みんな哀れっぽいものばかりだったが、その中でも、「死に行く人魚」の歌が一番悲しい節の歌だった。彼女がこの歌を歌って弾く時は、きっと涙ぐんだ眼で海を眺めた。その様子が、海の中に歌の主の人魚がいて、その人魚へ歌を送ってやると云うように見えた。(間)そしてあの歌を弾きながら歌う声は、ちょうど潮が深い深い洞穴の奥へ、忍びやかに寄せて行くように、幽《かすか》にそして震えていた。(間)俺は、あの歌を唄う彼女を
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