るに至る。関西地方は土佐の立志社、大阪の愛国社、すなわちかの快活的論派をもって誘導せられ、関東地方は多くかの翻訳的論派に動かされたり。しかしてかの折衷的論派は関の東西を問わずおよそ老実の思想を有する者みなこれを標準とせしものに似たり。十年以後一、二年間政論の全局は以上に述べたるがごとし。この間において政論は幾分か高尚の点に向かって進み、自由民権の説はかの王権および政府権威の理とともに世人のようやく講究するところとなれり。これ実に第三期の政論の萌芽と言うべし。かつ当時の一政変は政論をしてますます改革的方針に向かわしめたるものあり、十一年の中ごろ、時の政府に強大の権力を占め内閣の機軸たるところの一政事家は賊の兇手に罹りて生命を殞《おと》したり。岩倉右府の力量をもってすといえども抑制すべからざりし二、三藩閥の関係はこれがために幾分か調和を失い、政府部内の権力はふたたび一致を欠き、ついに種々の政弊を世人に認めしむるに至る。
 西南の役に当たり兵馬|倥偬《こうそう》の際に、矯激の建白書を捧げ、平和の手段をもって暗に薩州の叛軍に応じたるかの土州民権論者は、大久保参議の薨去《こうきょ》を見てふたたび
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