がしょぼしょぼと降り始めた。路行く人々の足が目立って急がしくなってゆく。玄竜は電車路の真中を狂犬のようにあてどもなく進んで行った。もうぼうぼうの頭が雨に濡れて渦を巻き、肩は雨で重そうに垂れていた。自動車が傍を掠《かす》めて走り電車は後ろの方で激しく警笛を鳴らす。その音がようやく耳にはいると彼は黙ったまま静かによけるのだった。時にはよけると共に振り返って拳を振り上げて、「野郎僕を殺す気か」と狂人のように叫んだ。
 けれど半時間あまりも歩いて師範学校前辺りまでやって来たかと思うと、ふと何かに取り憑かれたように右に折れて暗い小路の方へはいって行った。泥が靴にはねつき靴は水を蹴る。その中に雨は本降りになり出した。路地をばたばた走っていた人々は驚いて立ち止り、振り返って見て首を振った。彼はどこまでもどこまでも小路の続く限り、無我夢中に左へ曲ったり右へ抜けたりしつつ縫い歩いて行くのだ。今自分は寺を捜して行くんだと、ちりぢりにほぐされた神経の一つが遠い所でのように囁く。その小路をしまいまで登りつめれば妙光寺になると思われているのだった。再びあの新町裏小路の蜘蛛の巣のような迷路にはいっていたのである。玄竜の幻覚においては、それはポプラの亭々《ていてい》として立つ広い並木路のように見える。泥だらけの下水は綺麗に水の澄んだ小川の流れのように思われる。そこでは盛んに蛙が口をそろえてぐわっぐわっと鳴き騒いでいるような耳を聾するばかりの幻聴を聞いた。その上風がひゅうひゅうと吹き荒んでポプラの枝がへし折れそうに見える。もはや彼の足は躓《つまず》いたりのめったり、水溜りにあやまって落ち込んだりしていた。でも彼は夢中になって這い上る。その時に突然足元の方で蛙共が、
「鮮人《ヨボ》!」
「鮮人《ヨボ》!」
 と騒ぎ出したように聞えたのである。彼は怯えたようにいきなり耳を塞いで逃げ出しながら叫んだ。
「鮮人《ヨボ》じゃねえ!」
「鮮人《ヨボ》じゃねえ!」
 彼は朝鮮人であるがための今日の悲劇から胴ぶるいしてでも逃れたかったのであろう。ところが突然彼の鼓膜が轟音を立てて爆発したように思われたが、不思議にも先の蛙共の音は消え失せ、何かしら急に辺り一面から不思議な音が聞え出した。それがだんだんと複雑に大きくはっきりと聞えて来る。いつの間にかもう何千何万の人々が唱え合ってでもいるような、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経という念仏が、太鼓や木魚の音にのって海のように彼の周囲に拡がってしまった。彼はその中を恰も泳ぎもがきながら救いを求めるように慌てふためきつつ徨《さまよ》い廻った。だが迷路は思いのままにぐるぐると筋を引いているので、どんなに歩けど歩けど果しがない。混乱の中ではあるとはいえ、玄竜は極度の焦躁に追いたてられて、あー坊主共のお経や念仏が一斉に僕を呪って追い廻しやがるぞと叫びつつめちゃめちゃに走った。それで躓《つまず》いてどさりと倒れることもある。のそのそと又這い上る。こうして彼は目だけを赤々と燃えたぎらせ狂った泥牛のように怖ろしい恰好になった。だがその実今度こそお経や念仏のただよう海風にあおられて、ふわりふわり天上へ上って行きそうな気になった。ところがそうではない。彼の心の真底《しんそこ》ではちゃんと自分が娼家界隈へはいっていることを知っているのである。本当は自分の泊ったことのある家々をあがきつつ捜し廻っている訳なのだ。けれどどこにもかしこにも同じような赤や青のペンキを塗りたくった家ばかりで、折からざあっと土砂降りになった雨の水煙りにけぶって見えなくなる。彼は腕を振り上げて何かを二言三言声高に叫んだ。それから突然又殺気だった断末魔の闘牛のように怖ろしい勢で駆け出し、一つ一つの家の大門を叩き廻り始めたのである。
「この内地人を救ってくれ、救ってくれ!」
 彼は息をぜいぜいさせながら喚くのだった。そして又他の家へ飛んで行き大門を叩きつける。
「開けてくれ、この内地人を入れてくれ!」
 又駆け出す。大門を叩く。
「もう僕は鮮人《ヨボ》じゃねえ! 玄の上竜之介だ、竜之介だ! 竜之介を入れてくれ!」
 どこかで雷がごろごろと唸っていた。



底本:「光の中に 金史良作品集」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「金史良全集 1[#「1」はローマ数字、1−13−21]」河出書房新社
   1973(昭和48)年2月
初出:「文芸春秋」
   1940(昭和15)年6月号
入力:kompass
校正:土屋隆
2010年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全8ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
金 史良 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング