出したのである。――だが今や玄竜は田中に会えたことを思うともう凡ての悲しみも苦しみも霧散し、ひとりでに嬉しくなっていよいよ多弁になっていた。殊に傍には角井もおり、今まで筆を取る度に威張り散らした手前もあるので、思い切って大きく出て来た。
「帰ったらS先生にも宜しく云ってくれ、奴は朝鮮に帰ってからも中々やりおりますとね」
 或は、
「T先生は元気かね」
 それから、
「R君はどうしている?」
「D君の奥さんは?」
 けれど生憎《あいにく》、田中はSやTとも親しくしているような小説家ではなかったので、しどろもどろにばつを合わせた。何しろ彼は此頃スランプの中にいて書けないので、流行の満洲にでも行ってうろついて来れば違ったレッテルもついて新分野の仕事が出来るかも知れないと出掛けたまでだった。それでも発つ時に或る雑誌から朝鮮の知識階級に関する文章を求められているため、彼は今先まで自分に先生先生と馴れ馴れしくついて廻っていた低級な文学青年達を興味深く観察し、彼等と別れると大村や角井からいろいろ参考意見を聞いた所だった。殊に角井の至って人間学的な説明に依れば、朝鮮の青年というものは悉《ことごと》く臆病でひがみ根性があり、おまけに図々しくしかも党派心の強い種属ということである。丁度そのいい標本が田中も東京から知っている玄竜だと述べていた。それ故東京の或る知名な作家尾形が京城へ立ち寄った際、大村の肝煎《きもい》りで朝鮮の幾人かの文人達と一席を設けたところ、その席上で三十分もせぬ中に彼が玄竜の中に朝鮮人全部を見てとったのは、さすがに鋭い芸術家の烱眼《けいがん》だと讃嘆して附け加えた。尾形がここに朝鮮人ありと叫びながら玄竜を指差した時、実のこと、朝鮮の文人達は全く唖然とせざるを得なかった。が、当の玄竜はいかにも得意そうににたにたと悦に入っていたのである。田中は僅か一両日の滞在でしかも酒にばかり追い廻されて観察どころではないが、尾形に負けない程辛辣独特な観方をして書き送らねばならないと決心していた矢先なので、寧ろ代表的な朝鮮人と角井から太鼓判を捺された玄竜にひょっくり再び会ったことを幾らかは悦んだ。彼は角井の悪意に満ちた言葉に些《いささ》かも疑いを挟まなかった。いよいよ自分の直観の鋭さを示す時が来たと躍起《やっき》になって、彼は今度は朝鮮民族を検分するかのような物腰で自分から先に口を切った。
「君は帰ってからは朝鮮語で小説を書いていたんだってね」
「そうだよ、そうなんだよ」と玄竜は待っていたとばかり有頂天になって叫んだ。「僕は朝鮮に帰るなり素晴しい作品を矢継早《やつぎばや》に出したんだ。始めは野郎たち朝鮮にも天才のランボウが現われたと云って、目を丸くしやがった。だがだんだんと僕の読者がふえ地位も高まって来ると、文壇の奴等は嫉妬して葬ろうとさえしたんだ。大体君も見れば分る通り朝鮮人ちゅうのは仕様がねえんだ。いいか。狡くてそれに臆病なんだから党派を作って人が偉くなろうとすると突き落すんだ」その時角井はそれごらんと云わぬばかりに田中に向って顔をしゃくってみせた。田中は肯いた。
「奴等は僕が東京文壇で皆の注目をひいて活躍していたことさえ知らないんだよ」そしてちらっと角井の方を偸《ぬす》み見て、「無知だよ、全く無知だよ!」
 内地人と向い合った時には一種の卑屈さから朝鮮人の悪口をだらだらと述べずにはおれない、そうして始めて又自分も内地人と同等に物が云えるのだと信じ切っている彼である。いよいよ玄竜は火のような熱情に燃えて激しい息づかいをしながら叫んだ。
「僕はこういう度し難い民族性を考えると悲しくてならないんだ、田中、おう君、僕の気持を分ってくれるか!」
 彼は声を出してよっぽど泣こうかと思ったが、ただ手で顔をおおうてしゃくり上げただけである。田中はすっかり感動して、
「分るとも、分るとも」
 と共に泣く気持になり、やはり朝鮮にも来てよかったと思うのだった。内地にくすぶっていては島国文学しか出来ないと云うのは全くだ。ここに大陸の人々の苦しむ姿がある。箸にも棒にもかからないような男だった玄竜でさえ、もっと大きな本質的なもののために全身をゆすぶって悩んでいるではないか。そうだ、これこそ朝鮮の知識階級の自己反省として内地に報らせよう。尾形に俺の目が負けてはなるものかと力みつつ沁々《しみじみ》歓びを感じた。支那人は分らんと云う連中は愚の骨頂だ。朝鮮人を僅か二日で分ったこの調子でなら、俺は四日位で充分分ってみせるぞ、とも心の中で叫んだ。兎も角それのためにはいきおい玄竜を朝鮮の代表的なインテリにして書かねばなるまいとまで、頭でちゃんと構想をねっていた。が、角井にしては玄竜のことが滑稽でならないので、とうとう凱歌を上げたい気持になって意味ありげに彼の方をじろりと見やってから、
「莫迦に大村君は遅いですな、一人で帰ったのでしょうかな」
 と田中に向って云った。彼は玄竜が大村を雷のように怖れていることを知っているからである。
「え、大村君?」果して玄竜は一時に酔いがさめたように目を大きくしてぐっと体を起した。「大村君、大村君と一緒だったんですか?」
「うん、そこらで何か買物をすると云っていたがね」
 怪訝《けげん》そうな顔をしてから答える田中の話を聞いて、あ、これはいけないと慌てて、
「そうなんだ」と訳の分らぬことを叫んだ。「だから大村君と力を合わせて、朝鮮民族を改良するために努力しているんだ。問題は簡単なんだ。朝鮮人|悉《ことごと》くが今までのような固陋《ころう》な思想からぬけ出て、東亜の新事態を確認し、そしてひとえに大和魂の洗礼を受けることなんだ。それがため僕は人から気違いとまで云われながらも、大村君のU誌にいつもセンセイショナルな論文を書き立てたんだ」そこで急に声をひそめて首を突き出し、
「大村君は僕のことを何とも云わなかったのかい?」と訊いた。
「いや別に……」
 と田中はお茶をにごしたが、玄竜は又急にもとのような調子にかわって、
「大村君は実に当代稀にみる立派な奴だよ。だから僕など民間にいながら率先して全力を尽し助けているんだ。だが惜しいかな、好漢大村君も芸術家が分っていないんだよ、真の芸術家というのが……だから田中、君のような作家が大いに啓蒙してやるべきだと思うんだよ。ハムレットでもあるまいに、僕にお寺へ行けと無茶を云うんだから愉快なんだよ。それがね、尼寺へならともかく禿坊主のところへなんだよ。ねえ、僕がオフェリヤかよ? 僕はこう見えても憚《はばか》り様ながら頭はしっかりしているんだ!」
 角井はいかにも憐れむように田中に嗤ってみせつつ、すっぽらかして出て行こうというふうに、その洋服の裾を引張った。ところが玄竜が妙に喉にからんだ声を張り上げて強がりを云っている時、当の大村が悠然と入口の方からはいって来た。見るからに四十がらみの堂々とした立派な紳士である。玄竜はすっかりうろたえて、へーと笑いながら首筋に手をやるとぺこんと頭を下げた。角井は傍で意地悪い声を出してけけけと突然嗤うのだった。大村はここに玄竜がいるのを見て急に不機嫌になって呶鳴った。
「どうしたんだ、君は又こんな所へ来てくだをまいているのか」
「へー大村さん、へ、どうも」と玄竜は纏《まつ》わりつきながら腰をかがめた。「……実はそのう、田中君を一日中捜し廻ったんですよ。それで腹ぺこになったもんですから……つい、へ」
「おい、どうしたんだ、お寺には? ぐずぐずしないで一日も早く行くんだ!」
「はあ」と畏《かしこま》って玄竜はばつ悪そうにもじもじするのだ。「それはもうよく分っているんです」
 大村は角井や田中ににやりと目配せをしてみせ、それから遠来の客もあることなので自分が朝鮮にいて如何に朝鮮人のためを思っているかを身をもって示さねばならぬと考えた。
「早く謹慎の状をみせるんだ! 警察の手に君を渡すに忍びない気持があるからこそ、立派な和尚さんの所へ行って頭を直して来いと云うのじゃ。要するに君のような人間たちの魂を引き上げるためなんじゃ。煩悩を断つんだぞ、煩悩を」
「はあ、だから僕も……」
「分ったか、宜しい」そこで得意げに一度肩を張った。客達は皆目をきょとんとさせてこの光景を眺めていたが、さすがに田中は感慨無量そうに目をつぶったまま聞いていた。
「今はどういう時局だと思う。はっきり時局を認識しなくてはいかん。酒場を飲み倒したり、女を強奪したり、人を恐喝するなどもっての外じゃ。君は内鮮一体内鮮一体と気違いのように叫び廻るけれど、朝鮮人は誰一人君を相手にしないそうじゃないか。もう少し反省するんだ。まともな人間に帰れと云うのじゃ。分ったか、わしが君を応援することにつけ込んで、人の好意を利用するなんて絶対に許されん。莫迦奴! そんなに恩知らずだとはわしは始めて分った!」それから自分の語調に感動しついには興奮してしまった。「全く恩知らずの悪い奴め! まだ君の悪いことが分らんのか。内鮮一体ちゅうのは君のような人間の魂まで引上げて内地人同様にしてやることなんだぞ」
「それはそうです、だから僕は人に気違いとまで云われる程の熱情でそれを主張して来たんです。そうですとも、実際男分の日本が女分の朝鮮に手を伸して仲よく結婚しようと云うのにその手に唾をひっかける理由はないですからね。一つの体になることによって始めて朝鮮民族も救われるんです。僕は感激しているあまり朝鮮人に誤解さえ受けているのです。朝鮮人ちゅうのは一体に猜疑深い劣等民族ですから」
「それは待った」と大村は手を上げて思い深げに差し止めた。「朝鮮人の君達はあまりに自虐性にかかっている。わしの周囲にいる朝鮮人は皆自分の民族の悪口ばかり云って来るがそれが先ず第一いかんことじゃ。分ったか。もちろん反省し自分達の悪い点をなおすことは肝腎じゃ。だが自分を大事にしなくちゃいかん。大事に。それが出来ないのが、他の民族に劣る点じゃ。内地人を御覧! 内地人は決してそんなことはない」
「そうですよ、だってそうじゃないですか」と玄竜は慌てふためきつつ何の前後脈絡もないことを叫び始めた。彼は自分が何時か書いたことのある、至って学術的な文句を先から思い出してそれで頭が一杯だったのである。「少くとも地理的にみても、考古学的にみても、それから人類学的にみても、即ちアントロポロジー的にみても、生物学的にみても……」
 こうしきりに並べたてる時、角井ははたと学者的な良心に突き当ったので、
「それは君、アントロポロジーじゃなくてアントロポロギーだよ」と訂正した。
「そうですよ、そのアントロポロギー的にみても、又フィロロギー的にみても日本と朝鮮は男と女の相違しかないんです……」
 大村は彼のこのペダンチックな慌て方がおかしくてひとりでにやにや嗤っていたが、ふとそれを見た玄竜はもう大村が自分の熱情に気をよくし直したのに違いないと考えたので、いきなり全身をぐっと前に乗り出して、
「ところが大村さん」と叫んだ。「田中君とは僕はかけがえのない親友なんですよ」
 だが大村は云うだけ云ったというような調子で、くるりと田中や角井の方へ向き直って云った。
「さあ、もうそろそろ引上げましょうかな。大抵どんなものか見当がついたでしょうな」
「ああ大村さん、もうお帰りになるんですか」
 と玄竜はびっくりして、急にばね仕掛けにでも弾《はじ》かれたように大村の腕へ獅噛附《しがみつ》くように飛び出した。が、そのとたんに落ちていた桃の枝に足元がひっかかったので、彼は咄嗟《とっさ》にそれをすくい上げて抱え込みながら喘いだ。
「大村さん、大村さん!」
「どうしたんだね、それは又」と大村は不審そうに体を反らしてじっと見つめたかと思うと、「そんな様をして又歩いているのか、君のことはもうわしは知らん!」
「大村さん、大村さん」玄竜は急にへなへなに腰がくだけて悲しげに叫んだ。「あまりに花がいたいけないので街で百姓から買って来たまでなんです」その時自分の飲み代まで角井が払いをすましている様子なのを見て、彼はきまり悪くなったのか、慌しく田中の方へ廻
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