出した。或は彼自身が云っているように、本当に柔道初段以上[#「以上」に傍点]のために広過ぎる程の肩が凹み込んでいるのかは知らないが、がに股はあの妙な電信柱を知るようになって以来のことだった。殊に救いのないような孤独と深い憂悶の中に捉われている今の彼である。けれどとうとう明治製菓の近くに来るまで、ついぞ誰一人にも会うことが出来なかった。その時ふとこの明菓で開かれた昨夜の会合のことが思い出される。「貴様こそ朝鮮文化の怖ろしいだにだ!」と叫んで、皿を投げて来た評論家李明植の鋭い顔がすうっと閃《ひらめ》いて見える。彼は思い深げにその入口の前に立ち止ると、へん、青くさい野郎奴、今こそ豚箱で……とにやり薄笑いを浮べた。それからどれ、一つはいってやるかなという気になったらしく、急に胸を張り肩を怒らして慌しげに扉を押してはいって行った。ホールの中はがらんどうで、隅っこに僅か二人の外交員風の男が向い合って、ひそひそ何かを話し合っているきりである。玄竜はその真中の方へ徐《おもむ》ろに進んで行きどっかり坐り込むと、給仕の女の子を手招き寄せ暫くじいっと顔を見上げていたが、女の子が気味悪げに赧《あか》らむのを見るなり突然叫んだ。
「コーヒー」
女の子はびっくりして飛んで行った。で、彼はすっかり満足してにたっと笑いを浮べお尻を上げると、今度はどういうつもりか調理場の方へ狗《いぬ》のようにはいって行くや、
「ひー済みませんね」と相好をくずし、手をぴょこんと差し出した。「おしぼりを一つ……」
こういった馴れ馴れしさからみるに、調理人達はとうに自分を知っているに違いないと思っている訳であろう。成程彼等は昨夜二階で起った不祥事件を知っているので玄竜を覚えていた。丁度朝鮮文人達の会合があって何かを皆が熱心に討論し合っているところへ、片隅で突然玄竜がけらけら笑い立てたかと思うと、彼は一人の若い男から突然皿を投げ附けられ、頭を打たれて倒れたが、仰向けになったまま尚も不貞腐《ふてくさ》れたようにけらけらと笑うのを止めなかった。その場で李明植というその若い男は傷害のかどで臨席の警官に連行されて行った。調理人達はその席上の玄竜のふてぶてしさに随分驚かされたが、又こういう調理場のような変なところへ彼が現われてみると、いよいよ面喰らって怪訝《けげん》そうにお互い顔を見合わせた。誰とて笑う者もなく、ただ一人が驚いたように首を振っておしぼりはないという仕草をした。と、彼は一度でれりと横目で皆を睨み附け、いきなり鼠のように水道の方へ飛んで行ってざあざあ水をぶっ放したかと思うと、頭を突き出してふーふー水を浴びながら顔を洗うのだった。皆はてんから呆気《あっけ》にとられたが、彼がへへへと照れ臭そうに笑いつつ出て行った時、
「気違いじゃろか」と先の一人は首をひねったのである。
「いや、玄竜だ、玄竜だよ」
「そうだ、あれに違いない」
「小説家の玄竜だよ」
等と、皆は口々に囁き合いながら、食器の出し口に寄り集って覗き出した。見れば玄竜はもう自分の席に帰って、丁度傍においてあった朝刊を鷲掴《わしづか》みにして顔や首筋をふいているのだった。彼はちらっと流眄《ながしめ》で調理人達が詰め寄り自分の方に目を注いでいるのを見やると、すっかりいい気になって、真黒く濡れて皺くちゃになった新聞紙をぽんと鷹揚《おうよう》に卓の上へ投げた。そこで何気なしにそれに目をやったところ、紙の一つの襞《ひだ》の方を大きな一匹の南京虫がのそのそ這い廻っているのを見て目を瞠《みは》った。思わず彼はにこりと笑いを浮べ、心持ち体を乗り出したのである。南京虫はあまりに血を貪《むさぼ》り啜《すす》ったのであろうか、急に逃げ腰になってはいるが、赤く膨れ上り過ぎて足が云うことをきかぬらしく体を持てあましている形だった。時々|辷《すべ》って転げ落ちそうになるが、指先を持って行けば又慌てて逃げ出すのだった。もともと彼は南京虫が好きである。地べたにひっついて這い歩く様子が、自分の態《ざま》によく似ているとでも考えているのだろうか。或はその図太さや狡さが好ましく思われているのかも知れない。それにおやこれは今まで自分の首筋を這い廻っていたのに違いない、さてはあのメロン頬の女から背負わせられた奴かなと思うと、何故かしらくすぐったいような腹立たしさを感ずるのだった。彼はいきなり肩をうねらせてひひひと笑った。が、おやっと思ってみるといつの間にやら、南京虫はすごすご急いで今度は襞の裏の方へ逃げ隠れようとしている。彼は素早くその一端をつまみ上げてそうっと裏返し、いかにも面白そうに飽《あ》くまでその行方を見守った。ところがものの二三分もせぬ中に突然彼は目をむいて仰山《ぎょうさん》に驚き上った。南京虫は丁度ある一つの見出しの上を通りながら、一字一字を彼へそれと
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