あるとも云えようか。口を開けば合言葉である封建打破という若々しい熱情から、女学校を出るなり結婚問題さえふりきって東京にまで留学に旅立った彼女。だが内地で専門学校を出ると同時に、曾つては自分が打破せねばならぬと云い且つ又闘ったつもりの封建性の復讎を、真先に彼女自身受けねばならなかった。当時は結婚しようにも早婚のため妻を持たぬ青年はどこにも見附からなかったのだ。あたら青春の血潮を如何ともすることが出来ず、こうしてだんだん男達と接触する中に乱倫の道に陥ち込んだ。だが彼女は己こそ真向から旧制度に反抗し新しい自由恋愛の道を切り拓く先駆者だと思い込み、次々と自分の方から男を作って行くのだった。玄竜も他ならぬその相手の一人である。ただ違うとすれば、それは玄竜とだけは、二人同志がお互いの狂痴に馴れ合いすっかり満足し合っていることと云わねばなるまい。
「昨夜U誌の大村君が又僕んところへ来たんですよ、いいですか、大村君がウイスキーを持って来たんですよ」と玄竜は続け出した。「今夜中に書いてくれなければどうしても帰らんといったような訳でしてね、それにはさすがに僕も弱りましたよ。丁度東京への原稿を書いていたところなんですから。一寸素晴しいもんですぜ。Dという一流雑誌に三月も前からせびられている奴なんですよ」
「期待しますわ」女流詩人はこの上もなく感動して小さな目を輝かした。
「僕はもう朝鮮語の創作にはこりました。朝鮮語なんか糞喰らえです。だってそれは滅亡の呪符ですからね」そこで昨夜の会合のことを思い浮べながら、出鱈目《でたらめ》な見得を切ってみせた。
「僕は東京文壇へ返り咲くつもりです。東京の友人達も皆それを一生懸命にすすめているんです」
 けれどその実文素玉のような女は、昨夜明菓で本当に朝鮮の文学を守りたてているような真摯な文人達の間に会合があったことを知っている訳がない。玄竜だってどこかでこの文人達の集りのことをかぎつけて、殆んど会も終る頃のっそりと現われたのだ。が、そこには彼を朝鮮文化の怖ろしいだにとして憎悪|擯斥《ひんせき》している男女ばかりがずらりと並んで、面々に興奮と緊張の色をみなぎらせて朝鮮文化の一般問題だとか、朝鮮語による述作問題の是非について熱心に討論し合っていた。彼はへーと笑いつつきまり悪そうに片隅へ離れてちょこなんと腰をかけた。やはり彼等は自分達自身の手で朝鮮の文化を打ち樹てそしてその独自性を伸長させるべきで、そのことは又結局は全日本文化への寄与でもあり、又ひいては東洋文化のため世界文化のためでもある等と語っていた。玄竜は一人一人の顔をじろりじろりと眺め廻しつつ、恰《まる》で人を食ったようににたにた嗤《わら》ってばかりいたものだ。一瞬間若い血気盛りの評論家李明植の鋭い視線とかち合ったことを覚えている。彼は思わずその時ぎくりとした。何だか李はぶるぶる神経の一つ一つをふるわせているようである。突然李は興奮のあまりに、喉元をごくごくさせつつ、
「それは自明なことだ」と叫ぶのだった。「朝鮮語でなくては文学が出来ぬという訳ではない。僕は言語の芸術性のためにのみこのことを云っているのではない。何百年という長い間|固陋《ころう》な漢学の重圧のもとで文化の光を拝むことが出来なかったわれわれが、曲りなりにでもだんだんとわれ等の貴い文字文化に目覚めて来た今日ではないか。李朝五百年来の悪政の陰に埋れた文化の宝玉を発掘し、それによって過去の伝統を受け継ぐために、過去三十年間われ等はどれ程血みどろな努力を払ってこれ位の朝鮮文学でも打ち樹てたのであろうか。この文学の光、文化の芽をどういう理由で僕達の手で又葬るべきだと云うのか。だが僕はこれのために又|徒《いたず》らに感傷的になって云うのでもない。実に重大な問題は朝鮮人の八割が文盲であり、しかも字を解する者の九〇%が朝鮮文字しか読めないという事実なんだ!」
 その時玄竜は突然きききと嗤い声をたてた。
「黙れ!」
「黙れ!」
 と云う声が嵐のように起った。
「まあ、いい」と李は目をつぶって気を押し静めようと努めながら呻くようにふるえを帯びた声で論を進めた。「朝鮮語での述作がこの人達に文化の光を与える為にも、はた又彼等を愉《たの》しませるためにも、絶対的に必要なのは論を俟《ま》たぬことではないか。今も厳として朝鮮文字の三大新聞は文化の役割を立派に果しているし、朝鮮文字の雑誌や刊行物も民衆の心を豊かにさせている。朝鮮語は明らかに九州の方言や東北の方言の類《たぐい》とは違う。もちろん僕は又内地語で書くことを反対しているのでもない。少くとも言語のショービニストではないのだ。書ける人はわれらの生活や心や芸術を広く伝えるために大いに働いて貰わなければならない。そして内地語で書くことを慊《あきた》らずとする者、又は実際に書けぬ
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