ンだと叫んでかぶりついたのであるが、女はこういう天外な芸術家を理解しようとはせずにびっくりして飛び出したのである。彼はそんな不快なことを思い出して畜生、忌々《いまいま》しいと再び呟きつつ、兎に角一応小高い所まで出て見ねばなるまいと考えをきめ、いくらか坂になっている小路をさして又とぼとぼ歩き出した。やはり突き当ったり、くねりくねり曲ったりしつつ、ようやく坂の上、陽春館というそれも青ペンキ塗りの大門の前まで辿り着いた。辺り一面、数百千と坂をなして密集している朝鮮人の娼家の屋根が、右にも左にも上にも下にも波打っている。生温かい初夏の風に吹かれつつ誰かの詩にあるような、われ今山上に立つといった恰好で暫し突立っていると、ひたひたと寄せて来るやるせない淋しさをどうすることも出来なかった。男達が右往左往し娼女達の嬌声が高らかに響き返っていた昨夜の娼家界隈とも思われない程、辺りは森閑《しんかん》としている。だがこの満ちあふれる家々の中に何千という若い女が洗いざらしの藷《いも》のようにごろごろしているのに、自分は二日もすれば薄暗い妙光寺の中で寝起きせねばならないのか。玄竜はそこで二本目の煙草を取り出して火を附け、ふーと煙を吹き上げた。ぼうっと陽炎《かげろう》に霞んで程遠く西の彼方に天主教会堂の高く聳《そび》え立った鐘楼が見え、そこら辺りに高層建築が氷山のように群立っている。正に彼の行こうとする目標だ。それにしてもさて何処から下りて行ったものだろうかと頭《こうべ》をめぐらしたと思うと、彼はわれ知らずくすりと笑った。朝鮮家の屋根屋根を越えて南の麓の方を眺めた時、本町五丁目と思われる辺りに、黒い変圧器を幾つものせた異様な電信柱がふと目に附いたのだ。それはいつだったか、泌尿病院を捜して徨《さま》い歩いた時、そこにさる所の広告がぶら下っていたことを急に思い出したからである。そうだ、あれを目印にして下りて行けばいいと彼は自分に云った。――
本町通りと云えば京城では一番繁華な内地人町(日本人町)で、それは蜿蜒《えんえん》と東西に細長く連なっている。ようやく廓の出口を捜し当て、そこから本町五丁目へ玄竜がのっそり現われ出たのはもう十時すぎ、通りには人影も多く割り方賑やかだった。彼は文人でも官吏でも、誰か親しい人に会いたいものだと思いながら、眼尻を下げやや俯向《うつむ》き加減で通りの真中をがに股で歩き
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