にかみながら云った。
「そうか、じゃ下りて行こう」
 そこからは長い段々が続いていた。私と春雄はそれを一つ一つ下りて行った。彼は一段下の方を歩いて、恰も老人でも連れているように用心深そうに私の手を引きずって行くのだった。だが彼は中段まで下りて来ると急に立ち止って、私の体にぴったりよりついて私を見上げながら甘えるようにこう云った。
「先生、僕は先生の名前を知っているよう」
「そうか」私はてれかくしに笑って見せた。「云ってごらん」
「南《なん》先生でしょう?」そう云ったかと思うと彼は私の手に自分の脇にかかえていた上服を投げ附けて、嬉々としながら石段をひとり駆け下りて行くのだった。
 私もほっと救われたような軽い足取りで倒れそうになりながら、たたたっと彼の後を追うて下りて行った。



底本:「光の中に 金史良作品集」講談社文芸文庫、講談社
   1999(平成11)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「金史良全集 I」河出書房新社
   1973(昭和48)年2月28日
※初出:「文芸首都」1939(昭和14)年10月号
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:大野裕
2001年1月1日公開
2001年1月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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