は私に対してはもはや温順しくなったが、しかし一緒に寝るのは私にはひどい苦痛だった。彼の口臭も我慢ならない程臭いけれど、何より一晩中股ぐらをごしごしかいて明かすのである。自分でも梅毒だと云った。私はもうそれが頭にまで来ているのだろうと考えた。いつかの夜半彼は妙にしんみりとなって私に質ねたものである。
「君は朝鮮のどこだい?」
「北朝鮮だ」
「おらは南朝鮮で生れたぜ」彼はずるそうに私の気色を覗《うかが》うのだった。そしてひーんと打ち消すように鼻で笑ってみせた。だが私は強いて驚くような気色を見せまいとした。
「そうか」
すると彼は歯をむき出した。
「ほんとうだよ」
勿論こういう話は二人でこそこそと云いかわすのだ。
「おらあの女房も朝鮮の女だぜ」
「ほう……」私は思わず目を丸くした。
彼はいかにも小気味よさそうににやにやした。私は彼に何か訳合があるに違いないと考えた。
「朝鮮に行って貰ったのかい」
「おかしくって、面倒臭せえや。じかに洲崎の朝鮮料理屋に親方とかけ合いに行ってさ、この女をおらあの手に渡せ、でねえとこっちが承知しねえぞ、障子に火を附けてやらあとおどかしたんだ。すると野郎たち蒼くなってくれやがった訳さ」
彼はじろりと横目で私を見た。折しもさし込んで来た夜明けの月の光にその目は一層凄惨な影を宿していた。
だが翌朝はけろりとして、いつ自分がそんなことを云ったんだろうというような調子である。やはりいつものように弱い者をいじめ、新入者の弁当は取り上げた。だが私はその晩以来ますます彼のことを不審におもうようになった。それでも彼が警察の中で山田と呼ばれているからには、内地人であるに違いなかった。それでは彼の母が朝鮮人であるかも知れないと考えたが、ついぞ確かめることが出来ずに私は起訴猶予となって出て来たのである。――
そして私は今ようやく彼のことを思い出したのだった。私は何という迂闊《うかつ》さであろう。苗字の符合からしてもそれ位はとうに感附いていそうなものではないか。最初に山田春雄を見た瞬間から、私の眼の前には半兵衛の映像がかすかながらの光芒をもってちらついていた筈だった。だが私はそれが半兵衛であることに気附くことが出来なかった。或は春雄に対する愛情からして、ひそかにそれが半兵衛であることを私は怖れていたのかも知れない。
「半兵衛」私はもう一度静かに呟いた。
だが春雄はすやすやと心よい眠りにおちている。私の網膜には、
「おらあの女房も朝鮮の女だぜ」と云っていた半兵衛の卑屈な笑い顔が幾重にも浮び上って来た。するとそれがいつの間にか今度は春雄の寝姿の上にのりうつってしまった。その時かすかに春雄は呻き声を出したようである。彼は顔をひくひく痙攣させたと思うと、うーうーうなされながら寝返りをうって驚いたように目を瞠った。
「どうしたんだ、夢でもみたのかい」
私は汗だくになっている彼の首筋をふきながら訊いた。
彼は再び目をとじると譫言《うわごと》のように呟いた。
「父ちゃんが今度は僕を片附けるんだって」
四
私も一晩中うつらうつらとしてとりとめのない夢ばかりみていた。朝、目をさましてみたらもはやそこには春雄はいなかった。私は驚いたように相生病院へ行ってみればいいのだと自分に云った。その日は日曜日で春雄にも学校がない筈である。いつの間にか私はそこの玄関に立って呼鈴を鳴らしていた。丁度よく尹医師が出て来て、私を春雄の母親の病室へ連れて行きながら云った。
「何でも山田貞順という名前になっているよ。朝鮮の人じゃないんだね。言葉の調子や貞順という字づらがおかしいと思って、負傷した瞬間の模様を朝鮮語で訊いてみたが口を噤《つぐ》んで答えないんだよ。ただ倒れたのだと日本語で云うんだ」
「ううん、そうか」私はしどろもどろで云った。「傷は大丈夫かい」
「まあ、大丈夫だよ。だがどうしても顔面に刀傷の痕はつくんだろうね。全く気の毒な程ひどい傷がこめかみの所に出来るんだよ。そうれ、あそこなんだ、……山田さん、お子さんの協会の先生がいらっしゃいましたよ」
春雄はいなかった。十二畳位の部屋に寝台が五つ程交互に並んでいて、いずれにも病者が沈み込んでいた。その隅の方に彼女が横たわっていた。白い繃帯でぐるぐる巻かれた顔の中に口と鼻の所だけが少しばかり明いてみえる。彼女はじっとしたまま何も答えない。尹医師は回診のために席をはずしてくれた。私は彼女にどういうふうに話しかけたものだろうかと一寸ばかり当惑した。
「どんなにかお痛みのことでしょう。春雄君も随分心配していたようです」とつい言葉のはずみで山田のことをひっぱり出した。「実は私、春雄君の通っている協会の先生だもんだから……私、南《なん》と申します」
彼女は心なしか少しばかり体を動かしたように思われた。きっと彼女は私が朝鮮の苗字をしているので驚いたのに違いないと考えた。
「あ、あ」彼女は指先を小刻みにふるわせながら呻いた。
「春雄……春雄がほんとうに妾のことを……」
「…………」私は答えるに言葉がなかった。
「あは」彼女は感動の余り嗚咽《おえつ》した。「妾の春雄が、ほんとうに……妾を心《すん》配すると……云ったでしょうか……」
私もほろ苦い気持になった。だがいきおい春雄のことで彼女を慰めねばならなくなった。
「私は毎日春雄君と遊んでいるのです。時にはいろいろ気を落しなさるようなこともあるでしょう。だがまだほんの子供だし、その中にはきっとお母さんとしても自慢の出来るような春雄になると思うのです」私は実際にもそう考えていた。彼に今日の性格を与えたいろいろなものに思いを馳《は》せて、温かい手をさしのべ指導して行くならば、必ずや彼はだんだん深い自分の人間性に目覚めるであろうと信じた。
だが彼女は答えなかった。息を殺して私の云うことに注意を向けているばかり。私は続けた。
「始めはやはりあなたが春雄を連れて朝鮮へ帰るよりほかはないと考えました」
彼女はびくっとした。
「あなたのためにも又春雄の将来のためにもそれが一番いいと思ったのです。だが、あなたにはやはり今も半兵衛さんを大事にするような気持があるのでしょうね」
「アイゴ……何も訊かないで下さい」彼女は小さな声で哀れ深く云った。「私の主《す》人ですもの……」
「何も隠しへだてなさることはないと思います。私はかねがね半兵衛さんのこともよく知っているのです」
「あ」と彼女はさすがに驚いて声を呑んだ。彼女は全く沈没したように呻いた。「……でもあの人、妾を自由な身にしてくれました。……そして妾、朝鮮の女です……」しまいはもう咽《むせ》び声になっていた。
彼女は今もやはりこういう奴隷のような感謝の念をたよりにして生きているのだろうか、私は無道な半兵衛のことを思い出してたとえようもない愁然とした気持になった。いつか洲崎の朝鮮料理屋をおどかして連れて帰ったというのは丁度この女である筈だった。卑怯で残忍な半兵衛にしてみれば、この寄るべない朝鮮の女にいかにも目を附けて貰い受けそうな話ではないか。彼女は始めから彼のいけにえとして択《えら》ばれたのに過ぎない。あの怖ろしい薄莫迦の半兵衛に比べればこれは又何といういたいたしい婦であろう。私には彼女等夫婦の日常の生活さえ想像することが出来そうに思えた。彼女は毎日いじめられるのであろう。すってんてんに転びながら合掌して拝むのに違いない。そういう所から春雄のような異質的な子供も出来た筈であった。妾は朝鮮人でありますと彼女はいかにも悲しく云っていた。彼女の方では又もしかすれば自分が内地人と結婚していることを一種の誇りと思って、この逆境に生きてゆくせめてもの慰めとしているのかも知れない。私は寧ろあの半兵衛に向って彼女が激しい憎悪をもっていることを期待し、そして同じ郷国から出て来た者として義憤の悦びに酔いたかった。だが私は見事に肩すかしを食わされたではないか。
「先生」
「え」
「妾、お願《ねか》いすることがあります」
「お話して下さい」
「お願《ねか》い……します。どうか妾の春雄の……相手をしないで……下さいませ」
「…………」私は黙ったままじっと彼女を見守った。彼女は今にも泣き出さんばかりの声であった。
「……春雄は……一人でもよく遊びます……」だが傷がひどくうずいて痛み出したのであろう、彼女は再び死者のようになった。だが又かすかに呻き声を出しながら「一人で……幾人の子供の……声も……真似て……にぎやかに……遊ぶのです……踊りがうまいのです。妾悲しゅうございました。どこかで見て来ては……一人で一生懸命踊ります……そして自分でも泣いています……」
「やはり朝鮮人だと云って外でいじめられるからでしょうか?」
「だが今は泣きません」彼女は力をこめて強く打消した。
「春雄は内地人テ[#「テ」に傍点]す……春雄はそう思っています……あの子は妾の子ではありません……それを……先生が邪魔するのは……妾悪いと思います……」
「私は半兵衛さんも南朝鮮で生れたというふうに聞いているのですが……」
「え……そうです……母が私のように朝鮮人でした。……だが今は……朝鮮といえば言葉だけでも……あの人はオコリます……」
「だけど春雄君は朝鮮人の私に非常になついて来ました。実は昨夜あの子は私の部屋で泊って行ったのです」
「…………」
「その中にあの子供のあなたに対する態度もだんだん変って行くだろうと思うのです」それから励ますように云い張った。「きっと近い中に春雄はあなたに対する愛情をよび返すでしょう。春雄が私になついて来たことはあながち私に対する愛情からだけではなく、実はあなたに対する愛の一つの違った表わし方だと思うのです。きっと春雄は愛情というものに餓えているのに違いありません。あなたに素直な愛情をよせることも出来なく、又あなたの愛情を純真に受けいれることの出来ない春雄でした。だがそれはだんだんとなおって行くことと思いますが……」
「そうでしょうか」彼女は寧ろ絶望的に深く溜息をついた。
「……あの子が……」
その時に戸口から一人の朝鮮服を着た老婆が転ぶようにはいって来た。私はそれとなしに、彼女が李の母であることが一目見て分った。それで私は少しばかりベッドの傍を離れて立った。老婆は貞順の無慙な姿を見附けるなり、ふーと息を吐き出して朝鮮語で慨《なげ》いた。
「何ちゅうむごい事だよ。きっとあの悪党に天罰がおちるだよ。なあ、春雄の母ちゃん。わしを分るのけえ、李チャンの母だよ。李チャンの。しっかり気をもって早く治すのでっせ、分ったけえ」
貞順は指先をふるわせて辺りをまさぐった。老婆はその手をとった。
「傷でも治ったら今度こそ見附からねえように郷里へ逃げて帰るのでっせ。いつかみてえに又戻って来るでねえだよ。何もええことああるもんでねえだろ」
貞順は呻いた。老婆は急に何か思い出したとみえ急いで風呂敷包をほどくと、夏蜜柑を二つばかり取り出した。
「夏蜜柑だよ。食べると喉の乾きが少しはなおるかも知れねえよ」そこで彼女は一生懸命になって皮をむきはじめた。
「李チャンがおばさんにやってくれと買って来たんだよ。あれも今日から免許状が下りて一人前になったちゅうて喜んでな」
「どうぞお大事にして下さい」やはり私はその場を外した方がいいと考えたので、そう云うと戸口の方へ進んで行った。その時何か春雄の母の息苦しそうな、ほそぼそした朝鮮語が聞えたので私ははっと立ち止った。彼女は老婆に向って朝鮮語で哀願するように云うのだった。
「おばさん。……妾、やはり帰りませんわ……それに妾の顔にひどい傷が出来るそうですの……そうなれば……あの人……妾を売り飛ばそうとも云えませんし……誰もこんな妾なんか買いはしませんもの……」それから痙攣でも起したように急に起き上ろうとした。
「あ!」
「お前さん、どうしたんだよ」老婆は慌てて彼女を抱えて寝床の中へ落着かせた。
「……何か……音がしたの」彼女は気でもふれたように息を切らした。「おばさん……春雄が来るのです。そうれ妾を訪ねて来るのです……」それ
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