いをしながら、下の方からじっと私の顔を見上げた。殊更に目が白かった。子供達は私の廻りを囲んでつばを呑んでいる。彼の目にはふと一粒の涙がにじみ出したように見えた。だが彼はしずかに涙をおしこらえたような声で叫んだのである。
「朝鮮人の莫迦《ばか》!」
二
元来S協会は帝大学生が中心となっている一つの隣保事業の団体で、そこには托児部や子供部をはじめとして市民教育部、購買組合、無料医療部等もあって、この貧民地帯では親しみ深い存在となっていた。赤ちゃんや、子供のためには勿論、日常の細々した生活にまで、それはもう切りはなされないような緊密な連りをもっていた。そしてここへ通う子供達の母の間には「母の会」もあって、お互いに精神的な交渉や親睦を計るために、彼女たちは月二三度ずつ集まるのだった。だが今までついぞ一度も山田春雄の母は顔を出したことがなかった。自分の子供が夜遅くまでここへ来て遊んでいることを知っていようものなら、たとえ他の母達のように関係大学生達への温かい感謝の念からではないにしろ、時には親として自分の子供に対する心配からでもやって来ようというものではないか。――私はこの異常な子供に関心を持つとともに、こういう彼の家庭からして知らねばならないと考えたのである。
間もなく週末の三日続きの休みを利用して、子供達がどこかの高原ヘキャンプ生活に出掛けるようになった時、私は山田を自分の部屋に呼んで来た。山田は今までこんな機会にはいつも参加出来なかったことを私は知っている。
「どうだね、君も行くかい」
少年は頑《かたく》なに黙っていた。彼はこういう場合はこちらがどんなにやさしく持ちかけてもいつも疑り深くなるのだった。
「今度は君も行こうね」
「…………」
「どうしたんだね、君もお母さんを連れて来たらいいよ。父ちゃんでも構わない、どなたか父兄の方が来て承諾すればいいことになっているからね」
「…………」
「連れて来る気かい」
山田は首を振った。
「じゃ行かないの?」
「…………」
「費用は先生が出してやる」
彼は空々しい目で私を見上げた。
「そうしようね」
「…………」
「そんなら君のうちに先生が一緒に行って話してやろうか」
彼は慌てたように又首を振った。
「でも三日もとまって来るんだから、父ちゃんや母ちゃんの許しを受けないわけにはゆかないだろう?」
「先生も山に行くの?」その時になってやっと少年はずるそうに訊ねた。「行かない?」
「うん、先生は駄目だ、今度は留守番をすることになったんだ」
「じゃ僕も行かないや」
彼はひそやかな微笑を唇の上に浮べた。
「どうしてだね?」
すると彼はいーと歯をむいて白痴のように顎を突き出してみせた。
こういう風にして私はかねがね彼の家を一度訪問してみようと思いながら、とうとう果すことが出来なかった。彼はどうしたのかその隙を与えてくれないのである。
いよいよ土曜日が来て、S協会子供部の百余名は悦びざわめきながら上野駅へ列をなして出掛けたが、やはりその時間になるまで山田は見えなかった。だが後から屋上に用を思い出して上って行った私は驚いてしまった。物干台の柱にもたれて山田春雄が遠く並んで行く子供たちの行列をじっと眺めている。私は何とはなしに目頭が熱くなるのを感じた。物音に気附いて振り向いた彼はひどくまごついたようである。私は強いて笑いを作りながら彼の肩を後からそっと抱いてやった。
「そうら、あすこにアドバルンが上っているだろう」
「うん」彼は消え入りそうな声で云った。煤《すす》けた煙突や黒々した建物を越えて遠くの上野公園あたりに、二つ三つそれが尾をひいて浮んでいる。私はふと彼を温かくいたわってやりたいような気持になった。
「なあ春雄、これから先生は暇だから一緒に上野へでも行こうかい」
少年は見上げながらにっと笑った。
「じゃ行こう。先生は学校にも用事があるから丁度いい」
学校に用事があると云ったのは勿論嘘だった。そんなにも心にもないことを云う程、私は内心山田をはばかって遠慮しているのだろうか。
「へえ」彼は目をみはった。「先生も帝大なの?」彼はほんとに驚いたのに違いなかった。
「朝鮮人も入れてくれるかい?」
「そりゃ誰だって入れてくれるさ、試験さえうかれば……」
「嘘云ってらい。僕の学校の先生はちゃんと云ったんだぞ、この朝鮮人しょうがねえ、小学校へ入れてくれたのも有難いと思えって」
「ほう、そんなことを云う先生もいるのかい。それで生徒は泣いたのかい」
「うん泣くもんか、泣きやしねえよ」
「そうか、何という子供だい。一度先生の所へ連れて来てごらん」
「いやだい」彼はせき込んだ。「いないんだよ、いないんだよ」
「おかしなことを云うね」
「誰にも云わないんだよ、云わないんだよ」
彼はむきになって取り消した。全くへんな子供だなあと私は思った。丁度それと殆んど同じ瞬間だった。もしや彼がその朝鮮の子供ではないかという考が不意に浮んで来たのは。私は驚いたように彼の顔をじっと見つめた。彼は顔をこわばらせ警戒するように後ずさりした。そして急に一目散に階段をかけ下りながら叫ぶのだった。
「うん、僕、帽子をかぶって来るよ」
私は静かに首をふりながら階段を下りて行った。
だが私は玄関口から近い階段まで下りかけた時に、下の方で並々ならぬことがもち上っているのを知った。息をひそめてもみ合いながら、医療部の医師や看護婦や購買組合の男たちが、玄関口に横着けにされた自動車から一人のみすぼらしい恰好をした婦《おんな》を運び込んでいる。その後から助手の李がひどく興奮しているとみえ、肩で呼吸をきらしながらはいって来るのが見えた。婦の頭は血まみれになって後へぐんなりと垂れている。春雄がその傍をぶるぶるふるえながら二三歩ついて来たが、私を見附けるとぎょっとして立ち竦《すく》んだ。私はすぐに李の方へ近附いて行って、心配そうにどうしたことだと質ねた。すると彼は歯ぎしりしながら叫んだ。
「亭主に刃物で頭をやられたんです」医療部の戸口でがやがやしていた人々は皆驚いて彼の方へ振り向いた。「あの婦は朝鮮の人です。亭主は内地人の、これはひどい悪党なんだ」それからハンケチで首筋をふこうとしたとたんに、傍の方でうろたえている山田春雄を見附けると、彼は恐ろしい勢で少年の方へ飛びかかった。
「丁度こいつだ。こいつのおやじなんだ」彼は山田の手首をねじ曲げながら恰も犯人でも挙げたように「こいつの、こいつの」と口に泡をふくんで叫ぶのだった。その声はもはや興奮のあまり泣声にかわっていた。
山田はひどく苦しそうに悲鳴を上げながら、
「違うんだよ、違うよ」と喚いた。「朝鮮人なんか僕の母じゃないよ、違うんだよ、違うんだよ」
男達が中にはいってようやく二人をひき放した。私は殆んど茫然としていたのである。李君はいきりたって再び襲いかかり山田の背中を勢にまかせて蹴りつけたので、春雄はよろめきながら私の方へ抱きついて来た。そしてわーっと泣き出した。
「僕は朝鮮人でないよ、僕は、朝鮮人でないんだようー、なあ先生」
私は彼の体をしっかりと抱いてやった。私の目頭には熱いものがじーんとこみ上げて来るのを感じた。あの李のやけのような取り乱し方にしろ、又この少年のいたましい叫び声にしろ、私はどちらも責められないような気持だった。その場へぐったりとして倒れそうであった。婆やが一先ず山田を連れ出したので、やっとその場が収拾のついたようなものである。李君は激しく罵るように皆の前で云った。
「あいつのおやじは博徒《ばくと》の人でなしなんだ。つい先日監獄から帰って来たんだ。その間あの気の毒な婦は飲まず食わずにどんなに苦しんだか知れないや。その間中僕のうちへ、近処でなつかしいもんだから、やって来ては御飯を貰って行ったんだ。だのにあの悪党野郎は監獄から出ると、僕の所へ自分の嬶《かか》がゆききをしていたというので、ひどいやきを入れちゃったんだ。助かりやしねえ、もう助かりやしねえんだ」
彼はひーんと洟をかんだ。医療室から人が出て来て静かにしてくれるように云った。私は李を少しばかり離れた所へ連れて行きながら質ねた。
「君は山田春雄の家を知っているんですね」
「知っているもいないもないです」彼は忌々《いまいま》しそうに云った。「奴も駅裏の沼地に住んでいるんです」
「そうですか、随分ひどいもんだね。どうして君の家へゆききしたというのでいじめたのでしょう?」
彼は歯を食いしばった。
「そ、それは僕のお袋が朝鮮服を着ているからなんです。それで朝鮮人のところへ行くなってんです。へん、ふざけてらあ、莫迦《ばか》野郎奴が、あの前科者奴は何だと思うんです。たかがあいのこ[#「あいのこ」に傍点]じゃねえか」そして目の前に相手をおいたとでも云うように叫び声を上げた。
「野郎、覚えておくがええぞ、一度でも出会《でくわ》したなら、貴様の首ねっこはもうねえと思うんだぞ、やい、この半兵衛野郎!」
「え、半兵衛?」私は驚いて問い返した。
「そうです」彼は息を切らしながら云った。「ひどい悪党です、残忍な奴なんです、へん、だがな、今度こそ僕が承知しねえからな、野郎! 嬶の殺人罪をきせてやるからな」
「半兵衛」私は再び呟いてみた。どう考えてもそれは確かに私には耳なれの名前である。
「半兵衛、半兵衛」私は何度も口ずさんでみたが、記憶の中を空廻りするだけでどうしても思い起せなかった。
その時に医師の矢部君が出て来たので、私たちは彼の方へ駆け寄って経過をきいた。彼の話では生命には別状もないだろうが、何しろひどい刺傷でどうしても一カ月の入院治療は要するから、今に意識を返すのを待って、どこかほかの病院へ移さねばならないとのことだった。李はその話を聞くと真蒼になって声をふるわせ、亭主が何しろ半兵衛で鐚銭《びたせん》一文持たないごろつきであるから、入院などとても覚束《おぼつか》ない、助けると思ってここに治るまで寝かせてくれとすがり附いて頼んだ。
「先生、お願いです、僕の方でお粥だのそんなのは持ちますから、先生……」
だが実際のところここは医療部といっても、有志医学士が二三人昼間やって来て簡易治療にたずさわるという程度で、重傷患者を入院させるという程の所ではなかった。それで矢部君も暗然として首をひねりながら、私にどうしたものだろうと訊ねるのだった。私はすぐ近処の相生病院の尹医師を思い出したので、その方へ電話でお願いすることにした。それは貧民救済医院といったもので、資金が朝鮮の労働者たちのか細い懐から出ているだけに、朝鮮人にはいろいろ特典があった。丁度空いているベッドがあったために工合よく話がまとまった。それで再び彼女は担ぎ出された。もはや頭や顔には白い繃帯が何重にも厚ぼったく巻かれていた。それは丁度羽根のとれたとんぼのようにみじめだった。彼女は私たちに護られながら小路をぬけた所にある古ぼけた相生病院に運ばれた。手術台にのせられた時にもほんの少ししか意識がないようだった。彼女は二言三言呻いたようだったが、はっきりと聞きとることが出来なかった。体の小さい、弱々しそうな女だった。指先は蝋のように真蒼で血の気も通っていないようだった。その傍で尹医師は矢部君の話に耳を傾けながら、いろいろな医具の準備をととのえていた。私は彼等が再び彼女の繃帯をほどこうとするのを見て静かにその部屋から出て来た。
外はだんだん険しい空模様になっていた。風が出て来た。藤棚の葉っぱが激しく揺れていた。
病院には半兵衛も春雄も現われなかった。
三
日の暮れる頃はもうどしゃ降りになっていた。ますます風もひどくなり、雨は桶を流したような威勢で降り出した。窓ががたがたふるえ電灯が明滅していた。子供は一人も来ていなかった。ただ二階で数学の授業がひっそりと行われているだけだった。
私は食堂の方で二三の同僚たちや婆やと山へ行った子供部のことを心配し合っていた。だが私の脳裡には先程起った事件のショックがやきついてどうしても離れなかった。と云っても私はその
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