自動車が私たちの傍へすうっと横着けになるのだった。
「おや」と思ってみると運転手台で李が新しい帽子の庇《ひさし》に一寸ばかり指を上げてにこっと挨拶をしてみせた。私も嬉しくなって彼の方へ近寄って行った。
「お目出度う、先程病院で君のお母さんが云ってましたよ。うまくいったそうですね」
 春雄は別に悪びれずに私の傍へよりそうて来た。それを見て李は工合悪そうに目を逸《そ》らした。
「え、今先私も病院へ行って来たんですよ」それなら彼はそこで春雄にも会った筈だった。黒い美しい目をしばたたきながら、さすがに彼は悦びをつつみ隠せずに珍しくはしゃいだ。
「僕もやっと一人前ですよ、随分これはいい車でしょう。三七年型だけれどわりに新しいし、エンジンもしっかりしていますよ」
 そこで鷹揚にセルモーターを踏んだ。私の目にはありきたりのフォード型でそれ程いいようにも思われなかったが、「成程いい車ですね」と答えた。「今日はこの春雄君と一緒に遊びに来たんですよ」そして少年を引き立てるように続けた。「今も僕は気が附かなかったが春雄君が教えてくれたんでね」
「どうです、ひとつ乗ってみませんか。動物園にでも行くんでしょう」彼は戸を開けてしきりにすすめ出した。
 二人は仕方なしに手をとって乗り込んだ。動物園の入口まではいくらもなかった。
「どうですか乗り心地がいいでしょう」彼は私たちを下ろしながら云った。この純真な若者には今日という日がたのしくてならないのであろう。「ほかのお客さんもみんなそう云ってくれましたよ」
「そう、新しくて気持がいいですね」私は正直に云った。
 そこで彼は満足して見事にハンドルを操り切り返しをやると、先刻のように指を一寸立てて別れを告げ、ぶーぶー警笛を鳴らして人を散らしながら河豚《ふぐ》のように走って行った。春雄はじっと立ったまま羨望に満ちたまなざしで車を見送っていた。私は何という恵まれたうれしい日だろうと考えた。
「李君は立派な運転手になったね。君は大きくなったら何になる積りだい」私は春雄を顧みながら楽しそうに質ねた。
「僕、舞踊家になるんだよ」彼はいきなり明るい声で叫んだ。
「ほう」私は驚いて彼を見つめた。一時に彼の体が光彩を放ち出した様に思われた。「舞踊家になるのか」ふとこれは実に素晴しい舞踊家になれるかも知れないぞと考えた。
「そうか」
「うん、僕、踊るのが好きだよ。だけど
前へ 次へ
全26ページ中24ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
金 史良 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング