に肩をたたいてやった。「何だ、山田らしくもない。これからな、先生は協会へ帰って待っているよ。君が来たら昨日約束したように二人で上野へ遊びに行こうね」
彼はわーと泣き出した。私の心もゆらいでいた。だが病院の中にいるのは彼をますます窮屈にさせるだろうと思ったので、彼に病室を教えてから私は急いでそこから出て来た。そして何故彼が私の所から煙草を持って来たのだろうかといろいろと考えをめぐらしてみた。彼の母が吸うのだろうとしか想像がつかなかった。何という思わぬだしぬけたことをする少年であろう、私にはその時にも半兵衛が監房の中で上服を壁にかけてにたにたしていたことが思い出された。
五
一時間ばかりして山田春雄は再び私の前に姿を現わした。だが彼は指を口に咥《くわ》えたまま足元ばかり眺めていた。何だかすっきりした安堵もあるのだろうか。口元が今にも綻《ほころ》びそうにさえ思われた。何か素敵な事をした子供が大人の前でてれているようでもある。今まで彼の面上にこれ程素直な子供らしい影が現われたことがあろうか。彼はもうすっかり私を信じているのに違いなかった。だが私もひそやかに微笑を浮べるだけで何も訊かなかった。「さあ、出掛けようか」と帽子をとり乍《なが》ら一言云っただけである。
前夜の嵐の後をうけてうすら寒い位の午後だった。広小路で市電を下りた時は丁度日曜で押し合いへし合いの雑沓ぶりである。いつの間にか呑まれるように松坂屋の入口まで来たので、私は別に用事はないものの彼の手を引いてはいって行った。中も非常に込んでいた。春雄がエスカレーターに乗ろうというので二人で並んで乗った時は、さすがに彼は幸福そうで晴々としていた。私もみちあふれるような歓びを全身に感じた。少年春雄は今|凡《すべ》ての人々の中にいるんだという考えが、私にはどうしても不思議な程に嬉しくてならなかった。彼は春雄であると同時に今は私の傍に立ち又人々の中にもいるのだ。二人は相並んで三階まで運んでもらった。そこでも人込みの間を縫いながら私達は五階か六階かの所まで上って行くと、食堂の一隅に向い合って腰を掛けたのである。だがその実二人は必要以上の言葉はいくらも交さなかった。彼はアイスクリームとカレライスをとり私はソーダ水を飲んだ。
「うまいかい」
「うん」彼は皿の上に顔をつけたまま私を上目で見た。「デパートのカレライスはうまい
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