きっと彼女は私が朝鮮の苗字をしているので驚いたのに違いないと考えた。
「あ、あ」彼女は指先を小刻みにふるわせながら呻いた。
「春雄……春雄がほんとうに妾のことを……」
「…………」私は答えるに言葉がなかった。
「あは」彼女は感動の余り嗚咽《おえつ》した。「妾の春雄が、ほんとうに……妾を心《すん》配すると……云ったでしょうか……」
 私もほろ苦い気持になった。だがいきおい春雄のことで彼女を慰めねばならなくなった。
「私は毎日春雄君と遊んでいるのです。時にはいろいろ気を落しなさるようなこともあるでしょう。だがまだほんの子供だし、その中にはきっとお母さんとしても自慢の出来るような春雄になると思うのです」私は実際にもそう考えていた。彼に今日の性格を与えたいろいろなものに思いを馳《は》せて、温かい手をさしのべ指導して行くならば、必ずや彼はだんだん深い自分の人間性に目覚めるであろうと信じた。
 だが彼女は答えなかった。息を殺して私の云うことに注意を向けているばかり。私は続けた。
「始めはやはりあなたが春雄を連れて朝鮮へ帰るよりほかはないと考えました」
 彼女はびくっとした。
「あなたのためにも又春雄の将来のためにもそれが一番いいと思ったのです。だが、あなたにはやはり今も半兵衛さんを大事にするような気持があるのでしょうね」
「アイゴ……何も訊かないで下さい」彼女は小さな声で哀れ深く云った。「私の主《す》人ですもの……」
「何も隠しへだてなさることはないと思います。私はかねがね半兵衛さんのこともよく知っているのです」
「あ」と彼女はさすがに驚いて声を呑んだ。彼女は全く沈没したように呻いた。「……でもあの人、妾を自由な身にしてくれました。……そして妾、朝鮮の女です……」しまいはもう咽《むせ》び声になっていた。
 彼女は今もやはりこういう奴隷のような感謝の念をたよりにして生きているのだろうか、私は無道な半兵衛のことを思い出してたとえようもない愁然とした気持になった。いつか洲崎の朝鮮料理屋をおどかして連れて帰ったというのは丁度この女である筈だった。卑怯で残忍な半兵衛にしてみれば、この寄るべない朝鮮の女にいかにも目を附けて貰い受けそうな話ではないか。彼女は始めから彼のいけにえとして択《えら》ばれたのに過ぎない。あの怖ろしい薄莫迦の半兵衛に比べればこれは又何といういたいたしい婦であろう。私に
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