複雑な感情に捉われた。沿岸の住民がとても訓練を得て監視するために、稀の場合でなければ成功しないのである。あっちは命がけの冒険上陸とも云えるが、こちらは又こちらで必死になって上陸させまいと目を光らせている。僅か八つの小学生が学校へ行く途中、密航団を見付けて駐在所に告発したので表彰されたというでかでかした記事も稀ではなかった。それを読んでいると私は、自分までが来れない所へやって来て監視されているような、いやな気持になることがままあった。そのためでもなかろうが、私は九州時代有明海にしても、鹿児島海岸にしても、別府の太平洋にしても随分親しんだものだが、目と鼻の先の玄海灘の海辺には余り遊びに出掛けなかった。
それにしても卒業の年の初秋だったと思う、一度だけ郷里の或る学友と唐津へは行ったことがある。波の静かな夕暮で、海辺には破船だけが一つ二つ汀《みぎわ》に打ち上げられていたが、海の中へ遠く乗り出している松林には潮風がからんで爽やかに揺れていた。その時ふと私達の目には白い着物を着た婦《おんな》達が四五人、遠く砂浜を歩いて来るのが見えた。丁度夕焼頃となり、それが迚《とて》も美しく映えて見えるのだった。私はぎくりとして、さてはちりぢりになった密航団のかたわれではなかろうかと思った。ところが彼女達が近くやって来た所を見ると、近所の海辺に住んでる移住民の奥さん達のようだった。若い婦達が下駄を手に持って、時々腰を屈《かが》めて沙場の貝殻を拾っている様は美しい。その頃の高校の歌に、
「夕日や燃ゆれ、吉井浜、天の乙女がゆあみする」という句節があった。
私は滅多《めった》に歌など歌ったことがないが、その時はちょっとそういう文句を思い浮べた。
底本:「光の中に 金史良作品集」講談社文芸文庫、講談社
1999(平成11)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「金史良全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]」河出書房新社
1973(昭和48)年4月30日
※初出:「文芸首都」
1940(昭和15)年8月号
※底本にあった割り注および注は、編者もしくは編集者が付けたものと判断し、削除した。
※本文中の「内地」とは、当時日本の統治下にあった朝鮮などの地域との対比の上での日本を指す。
入力:大野晋
校正:大野裕
2001年1月1日公開
2005年12月14日修正
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