れ等は全く、男の裸体を描いたものゝ白眉であらう。又仁王様では私の知つてゐる範囲では大和法隆寺の入口にある二体の仁王様が素晴らしくいゝものである。
 これ等を見ると、その線には決して概念的な「力」がない。その表現は要するに「静」を目指してある。レオナルドの裸にしても、その双の手と、双の足を心持ち開いて、どつしりと立つてゐる感じは永遠の安定を思はせ、その線やその黒白のトンは比重の感じを持つてゐる。其他レオナルドの男の顔を描いた素描《すがき》等に実に男性としての美を表はしたものが多くある。これ等は、他の男子の肖像画とはちがつて、「男性」としての美が描かれてあると思ふ。他の男子の肖像画は肖像としての美であるが、レオナルドの或る素描《すがき》には、男の美、荘重、叡智、自信、安定等の美感が深い美に於て表現されてゐると思ふ。
 其他ギリシヤの彫刻などで男性をとりあつかつたものがあつてそれ等は美術として立派なものであるがしかしそれ等の美は男性美ではなく、むしろ所謂男性美を捨てたところにその美の出発があるから、これは問題外である。
 だから、男性美といふ様なものも必ずしも浅薄なものではなく、描く人によつては実に深いものとなるのであるが、しかし、所謂男性美といふものは多く浅薄で余はこれを好まない。
 扨てこれから美術に表はれた婦人の事を話すとしよう。
 余の最も感心してゐる婦人を描いた画の中、先づ、人に多く知られてゐるのはあのモナリザ・ヂヨコンドの肖像画である。これは今から三四百年前のイタリーのレオナルド・ダヴインチといふ人によつて描かれたものである。
 この画は実に深い。恐らくこの位見てゐて深い心地にさそはれる画は世界にさう沢山はあるまい。この画の感じは、完成の感じである。恐らくこの画位、全き完成の感じを与へる画は世界にさう沢山はあるまい。レオナルドは、この画を三年とかで描いたさうだ。そして、猶、自分では未完成のつもりでゐたさうだ。その途中でモデルの、モナリザ・ヂヨコンド夫人は長逝したのだ。
 しかし、前々からの画をみる時、其処に少しの未完成の感じを見出せない、完成されずしてゐる程に完成された感じがする。これは製作者の自作をより善きものにしたいと云ふ望みと、深い表現が出来れば出来る程、一層更に深い自然がみえて来るところの製作その一つの法則とによる事である。かくて第三者がみては実に完成されたものと見えるものも、作家にとつては未成品であるといふ場合はよくある事である。
 只その場合、作家より、第三者の方が深い自然を見得る人である時はこれが正反対になる。即ち、作家がもうどうしてもこれ以上は描けないといふ所まで描いて、これを完成したと思つても、その作品を観る第三者が、その作家より自然観照に於て深い人である時は、その作は実に描き足らぬものとなる。
 レオナルドと、ヂヨコンド夫人との間には清いそして淡い恋があつたと云ふ説もある。しかし、それは解らない。この画の顔は、不思議な笑みをもらしてゐる。人にはこれを謎の笑ひと云ふ。幽玄な、深い気持のするその顔の中、うすい微妙極みない線を持つたその唇は、かすかに彎曲して、微妙なほゝ笑みをもらしてゐる。
 恐らくレオナルドの唇にはこの唇をかく時には、同じ微妙なそして同じ幽玄極まりない微笑をもらした事であらう。実際画をかく時、笑ひ顔を描く時は作家はどうしても思はず知らず一緒にほゝ笑むものである。又泣いた顔をかく時はやはりしかめつらをしなくてはかけない。これは事際《こときは》の事であつて、これだけでも、造形美術の中に、「心」を描く、造形的要素といふものがあるといふ事が分る。
 この画でもう一つ驚嘆する事はそのふくよかな、手である。
 古来、手を美くしく描き得る画家があればその画家は必ず偉れた美を知つてゐる画家であるといふ事が云ひ得る。手は人間の肢体の中でも最も線の交響の微妙な部分である。其処には無数の美くしい線が秘くされてある。力のある画家はその力その美を捕へる。
 手は眼に次いで、神秘な「生きものの」感じを持つ。手にこの神秘美《ミスチツク・ビユーチー》を見る事の出来る画家は沢山は無い。しかし、立派な芸術に描かれた手は必ず皆不思議に生きて、不思議に美くしい。日本の仏像でも、そのすぐれたものゝ手は実に微妙な像と、厚みの美くしさを持ち、ギリシアの彫刻に、手だけ欠けて残つたものがあるがその美くしさは手の美の事を云ふたびに思ひ出す。
 この、モナリザの手は、それ等の手の中でも、たしかに優れた美くしさを持つものゝ一つである。
 それはどこ迄もふくよかに、くらい中にほの白く浮いた様な、神秘的な感じを持つて、しかもその皮膚の下にはあたゝかい血がしづかに流れてゐる様な、この世のものであるやうで、又幽界のものである様な、不思議な美さを持つ。
 そのモデリング(丸味凹凸の調子)は又不思議である。微妙なそのふくらみは陰影と明るみとの不思議に微細なテクニツクによつて織り出されてゐる。その調子はどこ迄もやはらかい。その明暗は、微妙にとけ合つて、細かな凹凸が描けるが如く、描かざるが如くに表現されてある。そしてその味は又一種の荘重である。
 この手とともに、余はレオナルドの足の素描《すがき》を思ひ出す。これは、聖アンナとマリアと幼キリスト、幼ヨハネを描いた画の下画のための足で、やはり婦人の足であるが、これは素描《すがき》を以て、このモナリザ夫人の手と同じ様な微妙で幽玄で荘重の気持が表現されてある。
 このモナリザ婦人の画を、或る人々は肉感的であると云ふ。しかし、この画は見るものに只肉感だけを与へるものではない。
 この画には一面さういふ、肉感的と云はれる様な或る感じがある事はある。その謎の笑ひも、決して浄きものゝ浄き喜びではない。しかし、それは、不浄なるいやしい笑ひでは更にない。その手は、神を拝する手ではない。その手には、あたゝかい血と肉が不思議に動いてゐる。しかしその感じには少しの不浄とか肉慾の気持はない。
 モナリザの肉感は、犯し得ない肉感である。それは肉感でないとは云へない。しかしそれは肉の神秘感[#「肉の神秘感」に白丸傍点]である、肉の幽玄感である。彼女の眼には不思議の情がある。しかし、それは燃えてはゐない。静かである。
 余はこれを異端の味と呼ばう。彼女は黙つてほゝ笑んでゐる。そのほゝ笑みは、レオナルドのほゝ笑みである。そして、「芸術」といふものゝ持つほゝ笑みである。
 実にこの画は、「芸術」の何であるかといふ事を語る。芸術が道徳でもなく宗教でもなく実に芸術であるといふ事はこの画のほゝ笑みの謎を解するものには解る。その肉感に芸術にのみゆるされる異端の域の或るシンボルである。
 レオナルドは、この画を描く時、彼独特のアトリエの中で、モナリザ・ジヨコンド夫人を坐らせ、その近くで絶えず微妙な音楽を奏せしめて、ヂヨコンド夫人の心を絶えず、楽しませ、その口辺《くちべ》にたえずよき微笑を、たゞよはす様にしたと云ふ伝説がある。実に不思議なる芸術三昧の一境だと思ふ。
 実にこの画は芸術の三昧といふ事がふさはしい気がする。其処には実に複雑な心が生かされてゐる。荘重、肉感、幽玄、神秘、そしてそれ等が不思議な完成を示してゐる。
 因にこの画は十年程前、仏国の美術館に懸けられてあつたが、盗まれて、数年|行衛《ゆくゑ》が解らなくなつてゐた。当事はイタリーあたりの未来派あたりの人のした事かなどといふ噂があつたがやはり盗人の仕業で後売りに出たのですぐつかまつて、今は又仏国の美術館に帰つてゐるが、その事を聞いた時は余も実に安心したのであつた。
 大分、モナリザの事をかいたが、今度は東洋画の李竜眠の婦人の素描《すがき》の事にうつらう。(しかし、もう大分長くなつたし、〆切も切れたからそれは又次号からはじめる事として今日はこれで一区切つけておかうと思ふ。)



底本:「日本の名随筆23 画」作品社
   1984(昭和59)年9月25日第1刷発行
   1991(平成3)年10月20日第12刷発行
底本の親本:「岸田劉生全集 第三巻」岩波書店
   1979(昭和54)年8月発行
※「ジヨコンド」と「ヂヨコンド」、「ギリシヤ」と「ギリシア」の混在は底本通りにしました。
入力:加藤恭子
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年5月3日作成
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