、ものの形を写す事と同じといっていい位の意味になっている。古来美術の堕落期は常にこの写実が装飾の柵《さく》を越えて主客が転倒した時であるが、それほどに画とは物を写す事と思われ、また事実、画家は物象の形によって内なる美を先《ま》ず醒《さ》まされるのが多い。恐らく十中八位までそうで少数の異例が夢幻的な美を幼い時から内に感じるのである。
かくて一般的には写実の道を執るのが自然である、昔の日本画の中にも写実を欲する意志はみえる。しかしそれ以上に伝統的に立派な装飾的要素があるので、不自由な画具に早く諦《あきら》めをつける事が出来たのだ。しかしこの事は殆ど無自覚的にされていた事なので、時とすると不知不識《しらずしらず》の間にしなくてもいい写実に引っかかって物の表相に捕《とら》われ無駄な力を入れ、出るべかりし美をこわしている例などが多い。円山応挙《まるやまおうきょ》などはそのあわれなる犠牲者の一人と見ていいと思う。錦画《にしきえ》なども初期のものは、写実に捕われず線の美などを主としたから美くしいが、明治初代のものなどになるほど、妙に自然派らしい写生に捕われたりして低級なものになっているのはその一例である。
とにかく古《むかし》は画具などの不自由から、写実の道はどうしても発達し切れないので、強く欲しつつその不足を皆が皆装飾によって足していた。この意志は日本画の歴史を見ると解ると思う。古《むかし》でも画を讃《ほ》めるのに、「美くしい」といってほめる人より、「実物の通り」といってほめる人が多かったに違いない。今見るとこれが本物の通りにみえたのかと思うほど写実とかけはなれた物にそういう賞讃の伝説がのこっているものが多い。これはつまり、その「美」や生きている感じが人を撃つのを、画は写実だという頭からよく出来たというかわりに本物の通りといわれたものであろう。
かくて、画家は少くもその八分通りまでは本来は写実につくべきである。今の日本画家たちも、本来は早くその日本画具を捨てなくてはならぬ連中なのである。もし通俗作家になるのがいやなら。世間的では満足出来ない人であるなら、そして画具に奉公する気でないなら。
しかし、自分は、彼らがたとえ日本画をすて、洋画をとったとて、其処《そこ》から本当の写実が生れるかどうかは決して保証する勇気を持たない。しかし、あるいは有望な人もあるかもしれない。そうい
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