にいえば、洋画に引かれているから。何故洋画に引かれているのかといえば、写実という事が一般画家にとって、大なる大なる誘惑であるから。物を如実に表わしてみたいから。
 かくて彼らは何と弁解しても写実の路《みち》を歩こうとしている事は否めない。唯《ただ》それが本当の写実にならないのは独《ひと》り日本画のみならず、日本はおろか世界中の数千万の凡庸画家の画は殆ど皆|悉《ことごと》く、ふみちがえた写実に堕しているものなのだから仕方がない。
 それなら将来の日本画はどういう道に生れるか。いわゆる旧派の日本画はもう形式になり終って、その型になり切った美術的要素には新らしい日本の心を盛る力がない。それなら何が残るか、ただ残るのは紙と、筆と墨と画具である。それと、日本画(あるいは東洋画)のそれらの質料の持つ型にならない美術品的要素である。(例えば毛筆のカスレ、ニジミ、紙と墨との特殊の味、線のカレやふくらみ、東洋風の色調の持つ味その他無数)これは保存すべきものであり、或る特殊の個性にとっては持って来いのよき質料である。
 美術というものを何でも写実でなくてはいけないと思い込む人が多いが写実は美術の最も一般的な道ではあるが決して写実のみが美術ではない。美術というものは元来人間の想像の華《はな》である。その根本は装飾の意志本能にある。美術とは世界の装飾にあるともいえる。美は外界にはない、人間の心の衷《うち》にある。それが外界の形象をかりて表われると自然の美となりその表現が写実となる。それが外界の形をかりずにすなおにじかに内からうねり[#「うねり」に傍点]出て来たものが、装飾美術になる。古代の器具や、野蛮人や農夫の器具に何ら自然物にたよらぬ線状で(波状輪状等)美くしい装飾のあるのは即ちその一例で、その他建築の屋根の曲線や、瓶壺等の線などにそれは表われる。美術はすなわちこの装飾が元である。「美」に置くという事が装飾で、その美は人間の衷なる心の要求でありまた本能である。この意志の欲する装飾が即ち美術でありここに造形の原因がある。もとよりもう一つの方面である所の模造の本能も美術の原因にはなる。しかし美術が芸術として人の「心」の糧《かて》となるには、最も根本のものは模造は第二で装飾が根元である。模造の本能とこの装飾の本能との有機的な必然的な一致が写実芸術の原因である。即ち内なる美と外界の形象との合一が
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