なりけれ[#地から1字上げ]五月二十一日
窓の外《と》の梅の実ややにそだちけり物のいのちをたのもしと見る
今一度もの書くことの叶ふ身となりなばいかにうれしかるらむ
落つるがに衰へてゆくけはひやみ踏みとどまりて力やや湧く[#地から1字上げ]五月二十三日
陽の光こほしきあまり縁に出で空とぶ雲の行末を見守《まも》る
五月半ば真冬の着物ぬぎあへず夏来たる日を首あげて待つ
をし物のさはにありてふ国ならば往きて住まなと思ふこの頃
白波の寄するなぎさに腰かけてさんさんとふる陽をし浴びばや[#地から1字上げ]五月二十四日

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夏近づけり
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過ぎ去りし冬の寒さかりしには、この上もなき難渋を覚えたり。幸にして生き延び、ここに夏を迎へんとするに当り、健康やや恢復の兆あり、心身共に伸び伸びとして喜びを感ずること少からず
[#ここで字下げ終わり]
夏こそはわがふるさとなれ。

うす寒き二旬にわたる曇り日の
やうやう晴れて初夏の
陽の光やや強まるなべに、
重き※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍ぬぎすてて
厚き毛糸のシャツもぬぎ
痩せし身の重荷おろして
ちぢこめゐたる首伸ばし
手足伸ばせば、
船ゆ港を望むごと
ふるさと見ゆる心地して心は勇む。

霜白き冬の朝、
しとしとと雪ふりつもる冬の夜、
空曇りて陽は見えず
寒き風吹きすさび
手足の血も凍り
骨も凍らんとする
冬の日を度るは、
ただひとり病める身の
草枕日くれて野辺にうちふし
異郷の旅に苦むごとし。

足袋ぬぎて
素足にて踏む畳こそ
わがふるさとのしるしなれ。
早暁起き出でて大気を吸へば
垂死の身もよみがへる。
窓の外《と》を見よ、
梅の実日にけにそだちつつ
夏も漸く近づけり。
船ゆ港を望むごと
わがふるさとは近づけり。
[#地から1字上げ]五月二十六日作

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小林君猛火に包囲されながら奮闘、同君の責任を負へる実業史博物館を辛うじて火災より救ひ出だせる由の通信を見て
[#ここで字下げ終わり]
猛火にも負けぬますらをふるひ立ち博物館を守り遂げしと
猛火にも焼けぬ君はも生きてあり尚ほ生きてありうれしかりけり[#地から1字上げ]六月三日

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病臥雑詠
[#ここで字下げ終わり]
今一度山川みたくおもへども尋《と》めゆく力うせにけるかも
いかなればかばかり力うせにけむふみ見るすらもものうかりけり[#地から1字上げ]五月三十日
今ははや夕かたまけて蚊になやむ夏ともなりて病癒えざり
帰らじと思ひし旅ゆ帰り来てあはれあはれはや八年を経ぬる
いましばし生きながらへて世の様を寄る年波は見せずといふや[#地から1字上げ]六月十四日
今しばし生きてあらめと思へども寄る年波はかちがたきかな
わがいのち家苞となして帰りてゆあはれあはれはや八年を過ぐるか
けふこそは筆をとらなと思ひしに午をも待たで熱出でにけり
豆粕のこなをおやつに貰ひ受け喜ぶ孫ぞあはれなりける
心にも任せぬ身をし横へて夢に遊ぶや万里の空
[#地から1字上げ]六月十五日
井戸の底沈み果てつつ暮すとも生きてあらむとわれ願ひをり
頂きし君のみうたをよろこびてけふひねもすをうち誦じけり(石田博士へ)
もしも天われに許さば蒸したての熱き饅頭|食《た》べて死なまし
たのみにし夏はやうやう来ぬれどもわがいたつきは癒えむともせず
あづさ弓かへらぬ旅の門出かと谷底に落ちて骨を撫でをり
力なき身によぢ登るすべもやと谷底に落ちてひとりもがきつ[#地から1字上げ]七月四日
今ははや何事もみな成し了へて清く死ななと思ふばかりぞ[#地から1字上げ]七月五日
今はただひねもすいねて夢も見ず心しづかに死ぬ日待ちつつ
這ひ上がる力もなくて谷底に落ちゐて尚も谷底に生く
谷底にいねつついく日経ぬるらむなど思ひつつけふもいひ食《は》む
急変を好めるさがにさからひていとおもむろに死にて行くらし
今一度都門の外《と》に出でなむと望みし願ひ徒《あだ》なるに似たり
[#地から1字上げ]七月六日

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畑田君間もなく京に移らるる由を聞きしに、それも望みなきこととなり、同君より聞きし様々の好意をたよりに、いろ/\の夢を結びゐしに、みな真に夢と消え去りたれば
[#ここで字下げ終わり]
あはれ夢みな夢となり戦ひのやみなむ日まで君に逢へなく
空中の楼閣忽ち土崩瓦解して身は寄す孤舟万里の波
あはれ夢夢みな夢と消え去りて病みこやしつつ独りいねをり
夢多きわが身は夢の破るるに慣れてしあればかなしみもせず
よしやよし夢は破るとかなしまじ夢多きこそわがさがなれば
こりもせで夢破るれば新たなる夢に耽りてまた夢を追ふ
[#地から1字上げ]七月四日―十日

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「生死
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