下で聞いていた乞食のせがれが、さてさてお侍だなんて平生大道狭しと威張っていくさるくせに商人ふぜいの者に両手をついてまであやまるとはなんとした情けない話であろう、いくら偉そうに威張っていたところで債鬼に責められてはあんなつらい思いもせなければならぬとすればつまらない、それを思うとわれわれの境界は実に結構なものだ、借金取りがやって来るでもなければ、泥棒《どろぼう》のつける心配もない、風が吹こうが雨が降ろうが屋根が漏る心配も壁がこわれる心配もない、飢えては一わんの麦飯に舌鼓をうち、渇しては一杯の泥水《どろみず》にも甘露の思いをなす、いわゆる
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一鉢千家[#(ノ)]飯 孤身送[#(ル)][#二]幾秋[#(ヲカ)][#一]  一鉢《いっぱつ》千家の飯、孤身幾秋をか送る
冬[#(ハ)]温[#(ナリ)]路傍[#(ノ)]草 夏[#(ハ)]涼[#(シ)]橋下[#(ノ)]流[#(レ)]  冬は温《あたた》かなり路傍の草、夏は涼し橋下の流れ
非[#(ズ)][#レ]色[#(ニ)]又非[#(ズ)][#レ]空[#(ニ)] 無[#(ク)][#レ]楽復無[#(シ)][#レ]憂  色《しき》に非ず又|空《くう》に非ず、楽無く復《また》憂《うれ》い無し
若[#(シ)]人問[#(ワバ)][#二]此[#(ノ)]六[#(ニ)][#一] 明月浮[#(ブ)][#二]水中[#(ニ)][#一]  若《も》し人此の六に問わば、明月水中に浮かぶ
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で、思えば自分らほどのんきな結構なものは世間にないとひとり言を言うて妙に達観していると、せがれのそばで半ば居眠《いねぶ》りをしていた親乞食がせがれがかように申しますのを聞いて、むっくと起き直り『これせがれ、そんな果報な安楽の身にいったいお前はだれにしてもろうたのか親様《おやさま》の御恩を忘れてはならんぞ』と言うたというお話がござります」
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「はたらけどはたらけどなおわが生活《くらし》楽にならざり、じっと手を見る」という連中が、この講話を聞いてはたして自分らほど果報な者は世にないと思うに至るであろうか、どうか。たとい彼ら自身はそう思うにしても、われわれははたして彼らを目して世に果報な人々とすべきであるか、どうか。それが私の問題とするところである。[#地から1字上げ](九月十九日)

       三の二

 五条河原《ごじょうがわら》の乞食《こじき》の話は、話ぶりがあまり巧みなので、ついそのまま転載さしてもらう気になったが、もし私の記憶が間違っていなければ、かの大燈国師《だいとうこくし》のごときも同じく五条の橋の下でしばらく乞食《こじき》を相手に修養をしておられたので、その時の作になる
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座禅せば四条五条の橋の上
   ゆき来《き》の人を深山木《みやまぎ》と見て
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という歌は有名なものだということであるが、さてここに注意しなければならぬのは、大燈国師のような偉い人ならばこそ、乞食のまねをしていてもよいけれども、われわれごとき凡夫だと、孟子《もうし》のいわゆる民のごときは恒産《こうさん》なくんば因《よ》って恒心《こうしん》なしで、心も魂も堕落こそすれ、とても明徳を明らかにするちょう人生の目的を実現する方向に進めるわけのものではない、ということである。そこで同じ貧乏を論ずるにつけても、自発的の貧乏すなわち自ら選択して進んで取った貧乏と、強制的の貧乏すなわちやむを得ず強制的に受けさせられている貧乏との区別を充分にしてかからねばならぬ。そうして私のここに論ずるところは、もちろんやむを得ず強制的に受けさせられている貧乏のことである。
 叙してここにきたる時、私はハンター氏の『貧乏』の巻首にある次の一節を思い起こさざるを得ない。
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「私は近ごろウィリアム・デーン・ホゥエルスに会うてトルストイを訪問したことを話したら、氏は次のごとく述べられた。『トルストイのした事は実に驚くべきものである。それ以上をなせというは無理である。最も高貴なる祖先を有する一貴族としては、遊んでいて食わしてもらうことを拒絶し、自分の手で働いて行くことに努力し、つい近ごろまでは奴隷の階級に属していた百姓らとできうる限りその艱難《かんなん》辛苦を分かって行こうとした事が、彼のなしあとうべき最大の事業である。しかし彼が百姓らとともにその貧乏を分かつという事は、これは彼にとって到底不可能である。何ゆえというに、貧乏とはただ物の不足をのみ意味するのではない、欠乏の恐怖と憂懼《ゆうく》、それがすなわち貧乏であるが、かかる恐怖はトルストイの到底知るを得ざるところだからである*。』……」
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