が彫り付けてある。
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「この国の国王、諸大臣、ならびに貴族平民の多くの者どもが、この記念像をゼームス・ワットのために建てた。そは彼の名を永遠に伝えんとてにあらず、彼の名は平和の事業にして栄ゆる限り、かかる記念像をまたずして必ずや永遠に伝わるべきものである。むしろこの像は人間が……彼らの最上の感謝に値するところの人々を尊敬することをわきまえているという証拠を示すためにのみ、ただ建てられたものである。」
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 彼ワットとは言うまでもなく蒸気機関の発明者である。しかしてこの蒸気機関の発明者こそ機械時代の先駆者の一人であってみれば、彼の名は実に人間にして滅びざる限り永遠に伝わるべきものである。
 ウェストミンスター寺院《アベー》には、ダーウィンがいる、ニュートンがいる、セークスピアがいる、そうしてまたこのワットがいるのである。寺院《アベー》のすぐ前は、ロンドンで最もにぎやかな場所の一つたるトラファルガル・スケアであって、そこには空にそびゆる高い高い柱の頂上に、ネルソン将軍が突き立っている。昔トラファルガルの海戦でスペイン、フランスの連合艦隊を一挙にしてほとんど全滅させ、自分もその場で戦いに倒れた英国海軍の軍神ネルソン卿《きょう》の銅像が、灰色の空に突き立って下界を見おろしているのである。そのネルソン卿の見おろしている下の広場は、自動車や人間の往来に目もくらむばかりであって、道一ツ横切るにも私たちのようないなか者はいつもひやひやしたものである。カフェーにはいると、地下室になっている。そこへ腰を掛けて茶を飲んでいると、天井の明かり取りのガラス板の上をおおぜいの人が靴《くつ》を踏み鳴らしながら通る。その騒々しさにはわれわれの神経もすり減らされるような気持ちであるが、さて戸を一つあけて寺院の内にはいると、たとえば浅草《あさくさ》の公園でパノラマ館にはいったよう、空気はたちまち一変して、外の騒々しさはすべて拭《ふ》いたように消されてしまって、寺院の内は靴音さえ慎まれるほどの静けさである。私はそういう空気の中で彼ワットの像を仰ぎ見ながら、低徊《ていかい》去るあたわず、静かにさまざまの感想にふけったものであるが、今またこの物語を草して機械のことに及ぶに当たり、ゆくりなくも当時を追懐して、ここに無用の閑話に貴重なる一日の紙面をふさぐに至りし次第で
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