が皆経済という事と密接な関係をもっておるのである。今日の世の中には、いろいろむつかしい社会上の問題が起こっているけれども、その大部分は、われわれの目から見ると、社会の多数の人が貧乏しているがために起こるのである。ホランダー氏は一昨年(一九一四年)公にしたる『貧乏根絶論』の巻首に「社会的不安は二十世紀の生活の基調音である。この不安はいろいろの方面に明らかに現われて来ている。産業上の諸階級間の不平、政党各派の紛擾《ふんじょう》、輿論《よろん》の神経過敏、経済上の諸調査の専心に行なわれつつあること等はすなわちそれである。……しかしながら、その根本の原因はどこでも同じことなので、すなわち貧乏の存在とその痛苦にほかならぬ。これが社会的|騒擾《そうじょう》の中心であり中核である*」と述べているが、余も全く同感である。
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* Hollander, The Abolition of Poverty, 1914. p. 1.
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 昔|孔子《こうし》は「足[#(シ)][#レ]食[#(ヲ)]、足[#(シ)][#レ]兵[#(ヲ)]、使[#(ム)][#二]民[#(ヲシテ)]信[#(ゼ)][#一レ]之[#(ヲ)]矣〈食を足し、兵を足し、民をして之《これ》を信ぜしむ〉」と言われたが、考えてみるとまことに食を足すということは政治の第一要件である。食を足してしかる後始めて強い軍人を養成して兵を足すこともできれば、また教育道徳を盛んにして民をしてこれを信ぜしむということもできるのである。世には教育万能論者があって、何か社会におもしろくない事が起こると、すぐに教育者を責めるけれども、教育の力にもおのずから限りがある。ダントンの言ったことばに「パンののちには、教育が国民にとって最もたいせつなものである」ということがあるが、このパンののちにはという一句は千鈞《せんきん》の重みがある。教育はまことに国民にとってたいせつなものではあるが、しかしその教育の効果をあげるためには、まず教わる者に腹一杯飯を食わしてかからねばならぬ。いくら教育を普及したからとて、まずパンを普及させなければだめである。[#地から1字上げ](九月二十五日)

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 今より十年前すなわち一九〇六年、かの英国において「食事公給条例」なるものが議会を通過するに至
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