Zルフ・インタレスト》是認の教義をもって創設され、一たび倫理学の領域外に脱出せしわが経済学は、今やまさにかくのごとくにして自己犠牲《セルフ・サクリファイス》の精神を高調することにより、その全体をささげて再び倫理学の王土内に帰入すべき時なることを。もしそれ利己といい利他というもひっきょうは一のみ。今曲げてしばらく世間の通義に従う。高見の士、請うこれを怪しむことなかれ。
[#地から1字上げ](十二月二十三日)

       十三の二

 頭脳の鋭敏なる読者は、私が貧乏退治の第一策として富者の奢侈《しゃし》廃止を掲げおきながら、その第一策を論ずる中に、私の話は一たびは富者を去って一般人のぜいたくに説き至り、さらに消費者責任論より生産者責任論に移りしを見て、ことに私の脱線を怪しまれたであろう。しかしこれはただ論を全うするためで、私の重きを置くところは飽くまで、富者の奢侈廃止である。
 すなわちこれを生産者の責任について論ぜんか、すでに述べしがごとく、需要と生産との間にはもとより因果の相互関係ありといえども、しかもそのいずれが根本なりやと言わば、需要はすなわち本《もと》で、生産はひっきょう末である。されば社会問題の解決についても、消費者の責任が根本で、生産者の責任はやはり末葉たるを免れぬ。何ゆえというに、極端に論ずれば、元来物そのものにぜいたく品と必要品との区別があるのではなくて、いかなる物にてもその用法いかんによって、あるいは必要品ともなりあるいはぜいたく品ともなるからである。
 たとえば米のごときは普通には必要品とされているけれども、これを酒にかもして杯盤|狼藉《ろうぜき》の間に流してしまえば、畳をよごすだけのものである。世の中に貧乏人の多いのは生活必要品の生産が足りぬためだという私の説を駁《ばく》して、貴様はそういうけれども、日本では毎年何千万石の米ができているではないかと論ぜらるるかたもあろうが、実はそれらの米がことごとく生活の必要を満たすために使用されているのではない。徳川光圀《とくがわみつくに》卿《きょう》の惜しまれた紙、蓮如《れんにょ》上人《しょうにん》の廊下に落ちあるを見て両手に取っていただかれたという紙、その紙が必要品たるに論はないけれども、いかなる必要品でも使いようによっては限りなくむだにされうるものである。たとえばまたかの自動車のごときは、多くの人がこ
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