A愚人はすなわち伝え聞いて耳をそばだつべきも、ひっきょうはなんの世益なくやがては身を滅ぼすの本《もと》である。
 ひそかに思うに、世の富豪は辞令を用いずして官職に任ぜられおるがごときものである。私はすでに中編において、今日社会の生産力を支配しつつあるものは一に需要なる旨を説いた。しかるにその需要、その購買力を有すること最も大なるものはすなわち富豪なるがゆえに、ひっきょう社会の生産力を支配し指導する全権はほとんど彼らの掌中にゆだねられているのである。貧乏人もおのおの多少ずつの購買力は有しているが、もちろんそれはきわめて微弱なもので、たとえば衆議院議員の選挙権のごときものである。これに比ぶれば、富豪の購買力は、議会の多勢に擁せられて内閣を組織しつつある諸大臣の権力のごときもので、かつその財産を子孫に伝うるは、あたかも天下の要職を世襲せるがごときものである。古《いにしえ》より地獄の沙汰《さた》も金次第という。今この恐るべき金権を世襲しながら、いやしくもこれを一身一家の私欲のために濫用するがごときことあらば、これまさに天の負託にそむくというもの、殃《わざわい》その身に及ばずんば必ず子孫に発すべきはずである。このゆえに、富を有する者はいかにせば天下のためその富を最善に活用しうべきかにつき、日夜苦心しなければならぬはずである。ぜいたくを廃止するはもちろんのこと、さらに進んではその財をもって公に奉ずるの覚悟がなくてはならぬと思う。[#地から1字上げ](十二月二十二日)

       十三の一

 私はすでに前回の末尾において、富者はその財をもって公に奉ずるの覚悟がなくてはならぬと言ったが、かく言うことにおいて、私の話はすでに消費者責任論より生産者責任論に移ったわけである。
 私はかつて、需要は本《もと》で生産は末であるから、われわれがもし需要さえ中止したならば、ぜいたく品の生産はこれに伴うて自然に中止せられ、その結果必然的に生活必要品の供給は豊かになり、貧乏も始めて世の中から跡を絶つに至るであろうと述べた。それゆえ私は消費者――ことに富者――に向かってぜいたくの廃止を説いたのであった。しかしさらに考えてみるといかに需要はあっても、もし生産者においていっさいのぜいたく品を作り出さぬという覚悟を立つるならば、それでも目的は達し得らるべきはずである。
 世間にはいくらでも需要のある品
前へ 次へ
全117ページ中99ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
河上 肇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング