回しにされて、無用のぜいたく品のみがどしどし生産されて来るゆえんである。
[#地から1字上げ](十月十七日)
七の二
けだし生活必要品に対するわれわれの需要にはおのずから一定の制限あるものである。かつて皆川淇園《みながわきえん》は、酒数献にいたれるときは味なく、肴《さかな》数種におよぶときは美《うま》みなく、煙草《たばこ》数ふくに及ぶときは苦《にが》みを生じ、茶数|椀《わん》におよぶときは香《かん》ばしからずと言ったが、誠にその通りで、たとえばいくら酒好きの人で、初めのうちは非常にうまいと思って飲んでいても、だんだん杯を重ねるとそれに従うて次第次第に飽満点に近づいて来る。そうして一たんその飽満点に達したならば、それから上は、いかなる上戸《じょうご》でも、もういやだという事になる。いくら食物が人間の生活に必要だといっても、いわゆる食前方丈所[#レ]甘不[#レ]過[#二]一肉之味[#一]〈食前方丈なるも甘んずる所一肉の味に過ぎず〉で、日に五合か六合の飯を食えばそれで足りる。それより以上は食べたくもなし、食べられるものでもなし、食べたからとてからだをこわすばかりである。さればいかなる金持ちでも、その胃袋の大いさが貧乏人とたいした違いなく、足もやはり貧乏人と同じように二本しかないならば、その者が自分で消費するために金を出して買うところの米とか下駄《げた》とかいうものには、おおよそ一定の限度があるべきはずである。そこでこれら金持ちの人々の需要の大部分はおのずから奢侈品《しゃしひん》に向くことになるのである。米を買ったり下駄を買ったりしただけでは、まだたくさんの金が残るからして、その有り余る金をばことごとく奢侈品に向けて来る。そこで奢侈品に対するきわめて有力なる需要が起こると同時に、生活必要品に対する貧乏人の需要のごときはこれがため全く圧倒されてしまうのである。しかるに今日の経済組織の下においては天下の生産者はただ需要ある物のみを生産し、たといいかに痛切なる要求ある物といえども、その要求にして資力を伴わざる限り、捨ててこれを顧みざるを原則としつつある。これ今の時代において、無用有害なる奢侈ぜいたく品のうずたかく生産されつつあるにかかわらず、多数人の生活必要品のはなはだしく欠乏を告げつつあるゆえんである。
たとえば、貧乏人がわずかばかりの金を持ち出して来て、
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