に今夜の月の照れるらむ君ひとり寐《ぬ》る窓の格子に[#地から1字上げ]八月七日

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幽居雑詠 三首
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われもまた深山の奥の苔清水有るか無きかのかそけさに生く
遠寺の鐘にゆられて雛罌粟の風なきゆふべ散るがに死なむ
老い去りて為すこともなく日を経れば明日にも死して悔なしと思ふ[#地から1字上げ]八月七日

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重ねて獄中に寄す
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君も来ず我も行き得ずことしまた秋風吹きてやがて暮れなむ[#地から1字上げ]九月一日

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母上より手紙来たる、おさびしき様子にて気になる
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秋の陽の窓にかたむく書斎にて母思ひつゝさびしみてをり[#地から1字上げ]九月二日

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偶成
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隠れ死ぬ手負の猪《しし》のふしどぞと都のほとりわれいほりせり[#地から1字上げ]九月二十七日

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第六十囘誕辰當日敍懷 二首
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一身痩盡如枯葉  一身痩せ尽して枯葉の如く、
萬境踏來似隔生  万境踏み来りて生を隔つるに似たり。
祇喜囘頭無所悔  たゞ喜ぶ頭《かうべ》をめぐらして悔ゆる所なきを、
誰知這箇野翁情  誰か知る這箇野翁の情。

一身痩盡纔存骨  一身痩せ尽して纔に骨を存し、
萬卷抛來空賦詩  万巻抛ち来りて空しく詩を賦す。
憐爾刑餘垂死叟  爾を憐む刑余垂死の叟、
半生得失待誰知  半生の得失誰を待ちてか知らむ。
[#地から1字上げ]十月二十日

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自画像に題す
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鏡せばおさなくて見しおほははと見まがふばかりわれふけにけり[#地から1字上げ]十二月十四日

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余年二十六歳之時、初號千山萬水樓主人、
連載社會主義評論于讀賣新聞紙上、名顯
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夙號千山萬水樓  夙に号して千山万水楼といふ、
如今草屋似扁舟  如今草屋扁舟に似たり。
相逢莫怪名殊實  相逢うて怪むなかれ名の実と殊なるを、
萬水千山胸底收  万水千山胸底に収む。
[#地から1字上げ]十二月十四日

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落葉の自画に題す
[#ここで字下げ終わり]
われもまた落葉に埋る苔清水あるかなきかのかそけさに生く
[#地から1字上げ]十二月二十四日
[#改段]

  〔昭和十五年(一九四〇)〕

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庚辰元旦
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六十二翁自在身  六十二翁自在の身、
夢描妙境樂清貧  夢に妙境を描いて清貧を楽む。
幽蘭獨吐深山曲  幽蘭ひとり吐く深山の曲、
殘月斜懸野水濱  残月斜にかゝる野水の浜。
[#地から1字上げ]一月一日

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還暦の祝賀を受けし人々へ、自ら描ける落葉の絵に自作の詩歌を題して贈りけるに、菅原昌人君より、風をいたみ彼のも此のもに散る落葉焚かば燃ゆべきしづけさに居り、との歌を寄せられければ、その返しにとて
[#ここで字下げ終わり]
老いらくの身をも落葉にたとへけり焚きて燃ゆべき我ならなくに[#地から1字上げ]一月二十五日

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題良寛上人畫像
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欲學書先須學人  書を學ばんとすれば先づ須らく人を学ぶべし、
形骸相似盡遺眞  形骸相似るも尽く真を遺ふ。
千金求得良寛字  千金求め得良寛の字、
但莫由沽這裡貧  たゞ這裡の貧を沽ふに由なし。
[#地から1字上げ]二月四日

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腥風不已
[#ここで字下げ終わり]
戰禍未收時未春  戦禍未だ収まらず時未だ春ならず、
天荒地裂鳥魚瞋  天荒れ地裂けて鳥魚いかる。
何幸潛身殘簡裡  何の幸ぞ身を潜む残簡の裡、
腥風吹屋不吹身  腥風屋を吹けども身を吹かず。
[#地から1字上げ]三月二日

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牢愁の思出
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春の日のくれゆく空のあはれさはひとりながめて牢にゐし時[#地から1字上げ]四月十二日

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近頃頻りに疲労を覚え、やがて寝付くべきか
と思ふほどなり、小詩を賦して自ら慰む
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
弱いからだが段々に弱くなり、
残りの力もいよ/\乏しくなつて来た。
ちよつと人を尋ねても熱を出し、
書を書いても熱を出し、
絵を描いても熱を出し、
碁を打つても熱を出す。
私は私の生涯のすでに終りに近づきつゝあることを感じる。
やがて寝付くやうになるのかも知れない。
だが私は別に悲みもしない。
過去六十年の生涯において、
何の幸ぞ!
私はしたいと思ふこと、せねばならぬと思ふことを、
力相応、思ふ存分にやつて来て、
今は早
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