二

 めつたに旅行することのない私が、当時は偶※[#二の字点、1−2−22]山口に出張してゐた。山口高等商業学校の教授であつた作田荘一君(後に京都帝大の教授となり、退官後は満洲建国大学の副総長となつた人)を京都帝大に迎へるため、校長に直接談判をしに出掛けたのである。同君は東京帝大の出身であり、当時はまだ纏つた著述も出されて居ず、発表された論文も極めて少く、余り人に知られては居なかつた。しかし古くから交際してゐる私は、その能力を信じて居たので、助教授として同君を京大に迎へんことを教授会に提議し、熱心にこれを主張して、遂に教授会の承認を経るに至つた。しかし同君は山口の方で大事な人だつたので、横地といふ校長が容易に手離さうとしなかつた。で旅行嫌ひの私も奮発して山口まで出向いたのである。
 ほぼ用件を了へ明夕は立つて帰らうとしてゐた日の夜、すでに眠つてゐた私は、真夜中に電報が来たと云つて眼を覚まさされた。改造社からのもので、四月号の『改造』が発売禁止になつたといふ知らせなのである。間もなくまた一通の電報が来た。同僚の河田嗣郎君が同じことを京都から打電されたものである。
 雑誌が発売禁止になつたとて、それを真夜中に打電するなど云ふことは、如何にも大袈裟に聞こえるであらうが、当時の情勢は必ずしもさうでなかつたのである。私は、既に述べたやうに、前々年の一月から『社会問題研究』を刊行して居たが、元来こんなものを私が創刊したのは、今後出来得るかぎり、大学教授の地位を利用しながら、社会主義の宣伝をしてやらうと腹を決めたからのことで、自然、創刊後間もなく、それは権力階級の間において物議の種子となつた。私が以前京都で懇意にしてゐた滝正雄君は、(後に近衛内閣の時、法制局長官を経て企画院総裁となり、退官後、貴族院議員に勅選された人。同君が京都帝大経済学部の講師を辞し、初めて衆議院議員の候補者に打つて出た時は、演説嫌ひの私が、その選挙区たる愛知県下に出張して、何日間か応援演説をして廻つたほど、私はそれまで同君と懇意にして居たのである。当時同君はすでに床次内相の秘書官になつてゐた。)私に書面を寄せて、先生の『社会問題研究』はいま頻りに問題にされてゐる、面倒な事態の起らぬ中に、一日も早く刊行を中止するやうお勧めする、などと言つて寄越した。私はその書面を見て思つた、懇意にしてゐた人ではあるが、何にしても今は政党員で、内務大臣の鞄持ちをしてゐる男のことだ、面倒なことが起ると云つたところで、首になる位が関の山だ、下手に脅かしに乗つて自分から引込むでもあるまい、私はさう思つて、表面上親切な此の忠言を冷然と黙殺した。また同じ頃に福田徳三君は、私が『社会問題研究』の第四冊を、マルクスの『賃労働と資本』のエンゲルス版の全訳に献げたのを見て、河上は研究の名に隠れて主義の宣伝をしてゐる、内務省はなぜあれを発売禁止にしないのか、などと盛んに咆哮した。でも無事に大正八年が過ぎ、大正九年も過ぎ、今は大正十年三月である。ところで、この頃になると、私は愈※[#二の字点、1−2−22]その筋から、大学教授中の「危険思想家の巨頭」だと極印づけられ、いつ問題にされるか知れない状態になつてゐた。少くとも私の書いたものが発売禁止になつたら最後、その時こそは直ぐに免官になる筈だといふ噂が、まことしやかに立てられて居り、私自身も已にその覚悟を決めてゐた。(私の場合には限らない、総じて大学教授の書いたものが安寧秩序を妨害すと認められ、発売を禁止されると云ふことは、その地位が問題とされる事由となり得る虞れがある。だから、さういふ危惧のある場合は、著者自身が発売禁止の処分に先だち、市場からの自著の引上げ並びに絶版を決行する習はしである。京都帝大の経済学教授では、ずつと以前に河田嗣郎氏が、近頃では石川興二氏が、さうした処置を取られた。)かうした事情を考慮に入れたなら、旅先の枕許へ二通の電報が舞ひ込んだのも無意味でないことが分からう。
 大学教授の書いたもので、社会の安寧秩序を妨害すと認定され、発売を禁止されたのは、多分これが初めてであつたであらう。で、警保局検閲課の役人も遠慮がちな態度を採り、「断片」以外の論文や小説にも二三いけない個所があると言つて、なるべく事態を漠然たらしめようとした。大学教授は研究発表の自由を有つてゐるのだから、何もあのやうな形式で物を言はれなくとも済む筈だ、などいふ言ひ訳らしい当局者談なるものも、新聞に載せられた。今になつては夢のやうな話だが、二十年余り前の大学教授といふものは、それほどの権威を有ち、軍部的警察的帝国主義の治下に在りながら、大学の一角に拠り、敢然として言論の自由を享受してゐたのである。(当時私は民間の社会主義者よりも遥に広い言論の自由を有つてゐた。堺利彦、山
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