味であった。炬燵《こたつ》も蒲団《ふとん》へ足を入れると、そこは椅子になっていて、下げた脚の底に行火《あんか》があった。障子の硝子《ガラス》越しに庭が見え、その庭には京都から取り寄せられたという白砂が敷き詰められていた。
炬燵の櫓《やぐら》を卓子にして、私は昼食を供せられた。青楓氏、夫人、令嬢、それから私、この四人が炬燵の四方に座を占めた。
私は出獄|匆々《そうそう》にも銀座の竹葉亭で青楓氏の饗応《きょうおう》を受けたりしているが、その家庭で馳走になるのは之が最初であり、この時初めて同氏の家庭の内部を見たわけである。ところで私の驚いたことは、夫人や令嬢の女中に対する態度がおそろしく奴隷的なことであった。令嬢はやがて女学校に入学さるべき年輩に思えたが、まだ食事を始めぬ前から、茶碗に何か着いていると云って洗いかえさせたり、出入りの時に襖《ふすま》をしめ忘れたと云って叱ったり、事毎に女中に向って絶間なく口ぎたない小言を浴びせ掛けられるので、客に来ている私は、その剣幕に、顔を上げて見て居られない思いがした。しかし之はいつものことらしく、青楓氏も夫人も別に之を制止するでもなかった。そればかりか、夫人の態度も頗《すこぶ》る之に似たものがあった。食後の菓子を半分食べ残し、之はそっちでお前が食べてもいいよと云って、女中に渡された仕草のうちに感じられる横柄な態度、私はそれを見て、来客の前で犬に扱われている女中の姿を、この上もなく気の毒なものに思った。貧しいがために人がその人格を無視されていることに対し、人並以上の憤懣《ふんまん》を感ぜずには居られない私である。私はこうした雰囲気に包まれて、眼を開けて居られないほどの不快と憂欝《ゆううつ》を味った。
私は先きに、人間は人情を食べる動物であると云った。こうした雰囲気の裡《うち》に在っては、どんな結構な御馳走でも、おいしく頂かれるものではない。しかし私はともかく箸《はし》を取って、供された七種粥《ななくさがゆ》を食べた。浅ましい話をするが、しゃれた香の物以外に、おかずとしては何も食べるものがなかったので、食いしんぼうの私は索然として箸をおいた。
人は落ち目になると僻《ひが》み根性を起し易い。ところで私自身は、他人から見たら蕭条《しょうじょう》たる落魄《らくはく》の一老爺《いちろうや》、気の毒にも憐むべき失意不遇の逆境人と映じているだろうが、自分では必ずしもそう観念しては居ない。どんな金持でも、どんな権力者でも、恐らく私のように、目分のしたいと思うこと、せねばならぬと思うことを、与えられている自分の力一杯に振舞い得たものは、そう多くはあるまいと思うほど、私は今日まで社会人としての自分の意志を貫き通して来た。首を回らして過去を顧みるとき、私は俯仰《ふぎょう》天地に愧《は》ずる所なく、今ではいつ死んでも悔いないだけの、心の満足を得ている積りだ。破れたる※[#「糸+褞のつくり」、第3水準1−90−18]袍《おんぼう》を衣《き》、狐貉《こかく》を衣る者と、与《とも》に立って恥じざる」位の自負心は、窃《ひそか》に肚《はら》の底に蓄えている。しかし何と云っても、社会的には一日毎に世人がらその姓名を忘られてゆく身の上であり、物質的には辛うじて米塩に事欠かぬ程度の貧乏人であるから、他人から、粗末に取扱われた場合、今までは気にも留めなかった些事《さじ》が、一々意識に上ぼるであろう。そうなれば、いやでもそこに一個の模型的な失意の老人が出来上る。私は注意してそれを避けねばならない。――私はこんな風に自分を警戒して居ながらも、簡素な七種粥の饗応を、何んだか自分が軽く扱われた表現であるかの如く感ぜざるを得なかった。
青楓氏が今の夫人と法律上の結婚をされる際、その形式上の媒酌人となったのは、私達夫妻であるが、私はそれを何程の事とも思っていなかった。ところが、私が検挙されてから、青楓氏の雑誌に公にされたものを見ると、先きの夫人との離縁、今の夫人との結婚、そう云ったような面倒な仕事を、私たちがみな世話して纏《まと》めたもののように、人をして思わしめる書き振りがしてあり、殊に「私は今も尚その時の恩に感じ、これから先き永久にその恩をきようと思っている」などと云うことを、再三述懐して居られるので、最初私はひどく意外に感じたのであるが、後になると、馬鹿正直の私は、一挙手一投足の労に過ぎなかったあんな些事《さじ》を、それほどまで恩に感じていられるのかと、頗《すこぶ》る青楓氏の人柄に感心するようになっていた。私は丁度そうした心構で初めて其の家庭の内部に臨んだのだが、そこに漂うている空気は、何も彼も私にとって復《ま》た甚だ意外のものであった。後から考えると、私はこの時から、この画家の人柄やその文章の真実性などに対し、漸《ようや》く疑惑を有
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