分の心を弄ばした。生全体の細かい強い震動が、大奏楽の Finale の楽声のやうに、雄々しく狂ほしく互に打ち合つて、もう一歩で回復の出来ない破滅を招くかとも思はれるその境を、彼の心は痛ましくも泣き笑ひをしながら小躍《こをど》りして駈けまはつてゐた。
 然しさうかうする中に癇癪《かんしやく》の潮はその頂上を通り越して、やゝ引潮になつて来た。どんな猛烈な事を頭に浮べて見ても、それには前ほどな充実した真実味が漂つてゐなくなつた。考へただけでも厭やな後悔の前兆が心の隅に頭を擡《もた》げ始めた。
「出したけりや出したら好いぢやないか」
 この言葉を聞くと妻は釣り込まれて、立上らうとした様子であつたが、思ひ返したらしく又坐り直して始めて彼の方を振りかへりながら、
「でも貴方がお入れになつて私が出してやつたのでは、私がいゝ子にばかりなる訳ですから」
 と答へた。それが彼には、彼を怖れて云つた言葉とはどうしても聞こえないで、単に復讐《ふくしう》的な皮肉とのみ響いた。
 何が起るか解らないやうな沈黙が暫くの間二人の間に続いた。
 その間彼は自分の呼吸が段々静まつて行くのを、何んだか心淋しいやうな気持で注意した――インスピレーションが離れ去つて行くやうな――表面的な自己に還《かへ》つて行くやうな――何物かの世界から何物でもない世界に這入つて行くやうな――
 呼吸が静まるのと正比例して、子供の泣き声はひし/\と彼の胸に徹《こた》へだした。慈愛の懐《ふところ》から思ひも寄らぬ孤独の境界《きやうがい》に投げ出された子供は、力の限り戸を敲《たゝ》いて、女中の名や、家にはゐない親しい人の名まで交《かは》る/″\呼び立てながら、救ひを求めてゐた。その訴への声の中には、人の子の親の胸を劈《つんざ》くやうな何物かが潜んでゐた。妻は始めから今までぢつと我慢してこの声に鞭《むちう》たれてゐたのかと甫《はじ》めて気がついて見ると、彼には妻の仕打ちが如何《いか》にも正当な仕打ちに考へなされた。
 それでも彼は動かなかつた。
 火のつくやうに子供が地だんだ踏んで泣き叫ぶ間に、寝室では二人の間に又いまはしい沈黙が続いた。
 彼はぢつとこらへられるだけこらへて見た。然しかうなると彼の我慢はみじめな程弱いものであつた。一分ごとに彼の胸には重さが十倍百倍千倍と加はつて行つて、五分も経《た》たない中に彼はおめ/\と立ち上つた。而して子供を連れ出して来た。
 彼は妻の前に子供をすゑて、
「さ、マヽに悪う御座いましたとあやまりなさい」
 と云ひ渡した。日頃ならばかうなると頑固《ぐわんこ》を云ひ張る質《たち》であるのに、この夜は余程|懲《こ》りたと見えて、子供は泣きじやくりをしながら、なよ[#「なよ」に傍点]/\と頭を下げた。それを見ると突然彼の胸はぎゆつ[#「ぎゆつ」に傍点]と引きしめられるやうになつた。
 冷え切つた小さい寝床の中に子供を臥《ね》かして、彼は小声で半ば嚇《おど》かすやうに半ば教へるやうに、是れからは決して夜中などにやんちや[#「やんちや」に傍点]を云ふものでないと云ひ聞かせた。子供は今までの恐怖になほおびえてゐるやうに、彼の云ふ事などは耳にも入れないで、上の空で彼の胸にすり寄つた。
 後ろを振返つて見ると、妻は横になつて居た。人に泣き顔を見せるのを嫌ひ、又よし泣くのを見せても声などを決して立てた事のない妻が、床の中でどうしてゐるかは彼には略※[#二の字点、1−2−22]《ほゞ》想像が出来た。子供は泣き疲れに疲れ切つて、時々夢でおびえながら程もなく眠りに落ちて了つた。
 彼は石ころのやうにこちん[#「こちん」に傍点]とした体と心とになつて自分の床に帰つた。あたりは死に絶えたやうに静まり返つてしまつた。寝がへりを打つのさへ憚《はゞか》られるやうな静かさになつた。
 彼はさうしたまゝでまんじり[#「まんじり」に傍点]ともせずに思ひふけつた。
 ひそみ切つてはゐるが、妻が心の中で泣きながら口惜しがつてゐるのが彼にはつきり[#「はつきり」に傍点]と感ぜられた。
 かうして稍※[#二の字点、1−2−22]《やゝ》半時間も過ぎたと思ふ頃、かすかに妻の寝息が聞こえ始めた。妻の思ひとちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]になつた彼の思ひはこれでとう/\全くの孤独に取り残された。
 妻と子供とを持つた彼の生活も、たゞ一つの眠りが銘々をこんなにばら/\に引き離してしまふ。彼は何処からともなく押し逼《せま》つて来る氷のやうな淋しさの為めに存分にひしがれてゐた。水色の風呂敷で包んだ電球は部屋の中を陰欝に照らしてゐた。彼は妻の寝息を聞くのがたまらないで、そつちに背を向けて、丸つこく身をかがめて耳もとまで夜着を被つた。憤怒の苦《にが》い後味《あとあぢ》が頭の奥でいつまでも/\彼を虐《しひた》げようとした。
 後悔しない心、それが欲しいのだ。色々と思ひまはした末に茲《こゝ》まで来ると、彼はそこに生き甲斐のない自分を見出だした。敗亡の苦い淋しさが、彼を石の枕でもしてゐるやうに思はせた。彼の心は本当に石ころのやうに冷たく、冷えこむ冬の夜寒の中にこちん[#「こちん」に傍点]としてゐた。
[#地から1字上げ](大正三年四月)



底本:「現代文学大系22 有島武郎集」筑摩書房
   1964(昭和39)年11月25日初版第1刷発行
   1969(昭和44)年3月10日初版第10刷発行
初出:「白樺」
   1914(大正3)年4月
入力:さくらいゆみこ
校正:浅原庸子
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング