なりました。それでも僕は我慢していました。そして、
「おおい、待ってくれえ」
 と声を出してしまいました。人間の言葉が帽子にわかるはずはないとおもいながらも、声を出さずにはいられなくなってしまったのです。そうしたら、どうでしょう、帽子が――その時はもう学校の正門の所まで来ていましたが――急に立ちどまって、こっちを振り向いて、
「やあい、追いつかれるものなら、追いついて見ろ」
 といいました。確かに帽子がそういったのです。それを聞くと、僕は「何糞《なにくそ》」と敗《ま》けない気が出て、いきなりその帽子に飛びつこうとしましたら、帽子も僕も一緒になって学校の正門の鉄の扉を何《なん》の苦もなくつき抜けていました。
 あっと思うと僕は梅組の教室の中にいました。僕の組は松組なのに、どうして梅組にはいりこんだか分りません。飯本《いいもと》先生が一|銭銅貨《せんどうか》を一枚皆に見せていらっしゃいました。
「これを何枚呑むとお腹《なか》の痛みがなおりますか」
 とお聞きになりました。
「一枚呑むとなおります」
 とすぐ答えたのはあばれ坊主の栗原《くりはら》です。先生が頭を振られました。
「二枚です」と今度はおとなしい伊藤《いとう》が手を挙げながらいいました。
「よろしい、その通り」
 僕は伊藤はやはりよく出来るのだなと感心しました。
 おや、僕の帽子はどうしたろうと、今まで先生の手にある銅貨にばかり気を取られていた僕は、不意に気がつくと、大急ぎでそこらを見廻わしました。どこで見失ったか、そこいらに帽子はいませんでした。
 僕は慌《あわ》てて教室を飛び出しました。広い野原に来ていました。どっちを見ても短い草ばかり生えた広い野です。真暗《まっくら》に曇った空に僕の帽子が黒い月のように高くぶら下がっています。とても手も何も届きはしません。飛行機に乗って追いかけてもそこまでは行《ゆ》けそうにありません。僕は声も出なくなって恨《うら》めしくそれを見つめながら地《じ》だんだを踏むばかりでした。けれどもいくら地だんだを踏んで睨《にら》みつけても、帽子の方は平気な顔をして、そっぽを向いているばかりです。こっちから何かいいかけても返事もしてやらないぞというような意地悪《いじわる》な顔をしています。おとうさんに、帽子が逃げ出して天に登って真黒《まっくろ》なお月様になりましたといったところが、とても信じ
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