怒りにまかせて、何の抵抗力もないあの子の襟《えり》がみでも取ってこづきまわすだろう。あの子供は突然死にそうな声を出して泣きだす。まわりの人々はいい気持ちそうにその光景を見やっている。……彼は飛び込まなければならぬ。飛び込んでその子供のためになんとか配達夫を言いなだめなければならぬ。
 ところがどうだ。その場の様子がものものしくなるにつれて、もう彼はそれ以上を見ていられなくなってきた。彼は思わず眼をそむけた。と同時に、自分でもどうすることもできない力に引っ張られて、すたすたと逃げるように行手の道に歩きだした。しかも彼の胸の底で、手を合わすようにして「許してくれ許してくれ」と言い続けていた。自分の行くべき家は通り過ぎてしまったけれども気もつかなかった。ただわけもなくがむしゃらに歩いて行くのが、その子供を救い出すただ一つの手だてであるかのような気持ちがして、彼は息せき切って歩きに歩いた。そして無性《むしょう》に癇癪《かんしゃく》を起こし続けた。
「馬鹿野郎! 卑怯者! それは手前のことだ。手前が男なら、今から取って返すがいい。あの子供の代わりに言い開きができるのは手前一人じゃないか。それに……帰ろうとはしないのか」
 そう自分で自分をたしなめていた。それにもかかわらず彼は同じ方向に歩き続けていた。今ごろはあの子供の頭が大きな平手でぴしゃぴしゃはたき飛ばされているだろうと思うと、彼は知らず識《し》らず眼をつぶって歯を食いしばって苦い顔をした。人通りがあるかないかも気にとめなかった。噛《か》み合うように固く胸高に腕ぐみをして、上体をのめるほど前にかしげながら、泣かんばかりの気分になって、彼はあのみじめな子供からどんどん行く手も定めず遠ざかって行った。



底本:「カインの末裔」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年10月30日改版発行
   1988(昭和63)年6月10日改版23版発行
初出:「現代小説選集」
   1920(大正9)年11月
入力:鈴木厚司
1999年2月13日公開
2005年11月19日修正
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