彼は、「私はエマソンを読んで、詩人になったのではない。私は始めから詩人だった。私は始めから煮えていたが、エマソンによって沸きこぼれたまでの話だ」といっている。私はこのホイットマンの言葉を驕慢《きょうまん》な言葉とは思わない。この時エマソンはホイットマンに向かって恩恵の主たることを自負しうるものだろうか。ホイットマンに詩人がいなかったならば、百のエマソンがあったとしても、一人のホイットマンを創《つく》り上げることはできなかったのだ。ホイットマンは単に自分の内部にある詩人の本能に従ってたまたまエマソンを自分の都合のために使用したにすぎないのだ。ホイットマンはあるいはエマソンに感謝すべき何物をか持つことができるかもしれない。しかしながらエマソンがホイットマンに感謝を要求すべき何物かがあろうとは私には考えられない。
 第三階級にのみおもに役立っていた教養の所産を、第四階級が採用しようとも破棄しおわろうともそれは第四階級の任意である。それを第四階級者が取り上げたといったところが、第四階級の賢さであるとはいえても、第三階級の功績とはいいえないではないか。この意味において私は第四階級に対して異邦人で
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