生命として踏むことが妨げられ、日光を精神として浴びることができなければ、それはその人の生命のゆゆしい退縮である。マルクスはその生命観において、物心の区別を知らないほどに全的要求を持った人であったということができると私は思う。私はマルクスの唯物史観をかくのごとく解するものである。
ところが資本主義の経済生活は、漸次に種子をその土壌から切り放すような傾向を馴致《じゅんち》した。マルクスがその「宣言」にいっているように、従来現存していたところの人々間の美しい精神的交渉は、漸次に廃棄されて、精神を除外した単なる物的交渉によっておきかえられるに至った。すなわち物心という二要素が強いて生活の中に建立されて、すべての生活が物によってのみ評定されるに至った。その原因は前にもいったように物的価値の内容、配当、使用が正しからぬ組立てのもとに置かれるようになったからである。その結果として起こってきた文化なるものは、あるべき季節に咲き出ない花のようなものであるから、まことの美しさを持たず、結実ののぞみのないものになってしまった。人々は今日今日の生活に脅かされねばならなくなった。
種子は動くことすらできない
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