生命として踏むことが妨げられ、日光を精神として浴びることができなければ、それはその人の生命のゆゆしい退縮である。マルクスはその生命観において、物心の区別を知らないほどに全的要求を持った人であったということができると私は思う。私はマルクスの唯物史観をかくのごとく解するものである。
ところが資本主義の経済生活は、漸次に種子をその土壌から切り放すような傾向を馴致《じゅんち》した。マルクスがその「宣言」にいっているように、従来現存していたところの人々間の美しい精神的交渉は、漸次に廃棄されて、精神を除外した単なる物的交渉によっておきかえられるに至った。すなわち物心という二要素が強いて生活の中に建立されて、すべての生活が物によってのみ評定されるに至った。その原因は前にもいったように物的価値の内容、配当、使用が正しからぬ組立てのもとに置かれるようになったからである。その結果として起こってきた文化なるものは、あるべき季節に咲き出ない花のようなものであるから、まことの美しさを持たず、結実ののぞみのないものになってしまった。人々は今日今日の生活に脅かされねばならなくなった。
種子は動くことすらできない。しかしながら人は動くことと、動くべく意志することができる。ここにおいてマルクスは「万国の労働者よ、合同せよ」といった。唯物史観に立脚するマルクスは、そのままに放置しておいても、資本主義的経済生活は自分で醸《かも》した内分泌の毒素によって、早晩崩壊すべきを予定していたにしても、その崩壊作用をある階級の自覚的な努力によって早めようとしたことは争われない(一面に、それを大きく見て、かかる努力そのものがすでに崩壊作用の一現象ということができるにしても)。そして彼はその生活革命の後ろに何を期待したか。確かにそれは人間の文化の再建である。人々間の精神的交渉の復活である。なぜなら、彼は精神生活が、物的環境の変化の後に更生するのを主張する人であるから。結局唯物史観の源頭たるマルクス自身の始めの要求にして最後の期待は、唯物の桎梏《しっこく》から人間性への解放であることを知るに難くないであろう。
マルクスの主張が詮じつめるとここにありとすれば、私が彼のこの点の主張に同意するのは不思議のないことであって、私の自己衝動の考え方となんら矛盾するものではない。生活から環境に働きかけていく場合、すべての人は意識的であると、無意識的であるとを問わなかったら、ことごとくこの衝動によって動かされていると感ずるものである。
私はかつて、この衝動の醇化《じゅんか》された表現が芸術だといった。この立場からいうならば、すべての人はこの衝動を持っているがゆえにブルジョアジーとかプロレタリアートとかを超越したところに芸術は存在すべきである。けれども私は衝動がそのまま芸術の萌芽《ほうが》であるといったことはない。その衝動の醇化が実現された場合のみが芸術の萌芽となりうるのだ。しからば現在においてどうすればその衝動は醇化されうるであろうか。知識階級の人が長く養われたブルジョア文化教養をもって、その境界に到達することができるであろうか。これを私は深く疑問とするのである。単なる理知の問題として考えずに、感情にまで潜り入って、従来の文化的教養を受け、とにもかくにもそれを受けるだけの社会的境遇に育ってきたものが、はたして本当に醇化された衝動にたやすく達することができるものであろうか。それを私は疑うものである。私は自分自身の内部生活を反省してみるごとにこの感を深くするのを告白せざるをえない。
かかる場合私の取りうる立場は二つよりない。一つは第三階級に踏みとどまって、その生活者たるか、一つは第四階級に投じて融け込もうと勉《つと》めるか。衝動の醇化ということが不可能であるをもって、この二つに一つのいずれかを選ぶほかはない。私はブルジョア階級の崩壊を信ずるもので、それが第四階級に融合されて無階級の社会(経済的)の現出されるであろうことを考えるものであるけれども、そしてそういう立場にあるものにとっては、第四階級者として立つことがきわめて合理的でかつ都合のよいことではあろうけれども、私としては、それがとうてい不可能事であるのを感ずるのだ。ある種の人々はわりあいに簡単にそうなりきったと信じているように見える。そして実際なりきっている人もあるのかもしれない。しかし私は決してそれができないのを私自身がよく知っている。これは理窟の問題ではなく実際そうであるのだからしかたない。
しからば第三階級に踏みとどまっていることに疚《やま》しさを感じないか。感ずるにしても感じないにしてもそうであるのだから、私には疚しさとすらいうことはできない。ある時まではそれに疚しさを感ずるように思って多少苦しんだことはある。しかしそれは一個の
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