想片
有島武郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)論駁《ろんばく》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)自己|慰藉《いしゃ》にすぎない
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 私が改造の正月号に「宣言一つ」を書いてから、諸家が盛んにあの問題について論議した。それはおそらくあの問題が論議せらるべく空中に漂っていたのだろう。そして私の短文がわずかにその口火をなしたのにすぎない。それゆえ始めの間の論駁《ろんばく》には多くの私の言説の不備な点を指摘する批評家が多いようだったが、このごろあれを機縁にして自己の見地を発表する論者が多くなってきた。それは非常によいことだと思う。なぜならばあの問題はもっと徹底的に講究されなければならないものであって、他人の言説のあら探しで終わるべきはずのものではないからである。
 本当をいうと、私は諸家の批評に対していちいち答弁をすべきであるかもしれない。しかし私は議論というものはとうてい議論に終わりやすくって互いの論点がますます主要なところからはずれていくのを、少しばかりの議論の末に痛切に感じたから、私は単に自分の言い足らなかった所を補足するのに止めておこうと思う。そしてできるなら、諸家にも、単なる私の言説に対する批評でなしに――もちろん批評にはいつでも批評家自身の立場が多少の程度において現われ出るものではあるが――この問題に対する自分自身の正面からの立場を見せていただきたいと思う。それを知りたいと望む多数の人の一人として私もそれから多分の示唆を受けうるであろうから。
 従来の言説においては私の個性の内的衝動にほとんどすべての重点をおいて物をいっていた。各自が自己をこの上なく愛し、それを真の自由と尊貴とに導き行くべき道によって、突き進んで行くほかに、人間の正しい生活というものはありえないと私自身を発表してきた。今でも私はこの立場をいささかも枉《ま》げているものではない。人間には誰にもこの本能が大事に心の中に隠されていると私は信じている。この本能が環境の不調和によって伸びきらない時、すなわちこの本能の欲求が物質的換算法によって取り扱われようとする時、そこにいわゆる社会問題なるものが生じてくるのだ。「共産党宣言」は暗黙の中にこの気持ちを十分に表現しているように見える。マルクスは唯物史観に立脚したと称せられているけれども、もし
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