縦令《たとえ》永年見慣れて来た早田でも、事業のうえ、競争者の手先と思わなければならぬという意識が、父の胸にはわだかまっているのだ。いわば公私の区別とでもいうものをこれほど露骨にさらけ出して見せる父の気持ちを、彼はなぜか不快に思いながらも驚嘆せずにはいられなかった。
 一行はまた歩きだした。それからは坂道はいくらもなくって、すぐに広々とした台地に出た。そこからずっとマッカリヌプリという山の麓《ふもと》にかけて農場は拡がっているのだ。なだらかに高低のある畑地の向こうにマッカリヌプリの規則正しい山の姿が寒々と一つ聳《そび》えて、その頂きに近い西の面だけが、かすかに日の光を照りかえして赤ずんでいた。いつの間にか雲一ひらもなく澄みわたった空の高みに、細々とした新月が、置き忘れられた光のように冴《さ》えていた。一同は言葉少なになって急ぎ足に歩いた。基線道路と名づけられた場内の公道だったけれども畦道《あぜみち》をやや広くしたくらいのもので、畑から抛《ほう》り出された石ころの間なぞに、酸漿《ほうずき》の実が赤くなってぶら下がったり、轍《わだち》にかけられた蕗《ふき》の葉がどす黒く破れて泥にまみれたりしていた。彼は野生になったティモシーの茎を抜き取って、その根もとのやわらかい甘味を噛《か》みしめなどしながら父のあとに続いた。そして彼の後ろから来る小作人たちのささやきのような会話に耳を傾けた。
「夏作があんなだに、秋作がこれじゃ困ったもんだ」
「不作つづきだからやりきれないよ全く」
「そうだ」
 ぼそぼそとしたひとりごとのような声だったけれども、それは明らかに彼の注意を引くように目論《もくろ》まれているのだと彼は知った。それらの言葉は父に向けてはうっかり言えない言葉に違いない。しかし彼ならばそれを耳にはさんで黙っているだろうし、そしてそれが結局小作人らにとって不為めにはならないのを小作人たちは知りぬいているらしかった。彼には父の態度と同様、小作人たちのこうした態度も快くなかった。東京を発《た》つ時からなんとなくいらいらしていた心の底が、いよいよはっきり焦《い》らつくのを彼は感じた。そして彼はすべてのことを思うままにぶちまけることのできない自分をその時も歯痒《はが》ゆく思った。
 事務所にはもう赤々とランプがともされていて、監督の母親や内儀《おかみ》さんが戸の外に走り出て彼らを出迎えた。土下座せんばかりの母親の挨拶などに対しても、父は監督に対すると同時に厳格な態度を見せて、やおら靴を脱ぎ捨てると、自分の設計で建て上げた座敷にとおって、洋服のままきちんと囲炉裡《いろり》の横座にすわった。そして眼鏡をはずす間もなく、両手を顔にあてて、下の方から、禿《は》げ上がった両鬢《りょうびん》へとはげしくなで上げた。それが父が草臥《くたび》れた時のしぐさであると同時に、何か心にからんだことのある時のしぐさだ。彼は座敷に荷物を運び入れる手伝いをした後、父の前に座を取って、そのしぐさに対して不安を感じた。今夜は就寝がきわめて晩《おそ》くなるなと思った。
 二人が風呂から上がると内儀《おかみ》さんが食膳を運んで、監督は相伴なしで話し相手をするために部屋の入口にかしこまった。
 父は風呂で火照《ほて》った顔を双手《りょうて》でなで上げながら、大きく気息《いき》を吐き出した。内儀《おかみ》さんは座にたえないほどぎごちない思いをしているらしかった。
「風呂桶をしかえたな」
 父は箸を取り上げる前に、監督をまともに見てこう詰《なじ》るように言った。
「あまり古くなりましたんでついこの間……」
「費用は事務費で仕払ったのか……俺《わ》しのほうの支払いになっているのか」
「事務費のほうに計上しましたが……」
「矢部に断わったか」
 監督は別に断わりはしなかった旨を答えた。父はそれには別に何も言わなかったが、黙ったまま鋭く眼を光らした。それから食膳の豊かすぎることを内儀《おかみ》さんに注意し、山に来たら山の産物が何よりも甘《うま》いのだから、明日からは必ず町で買物などはしないようにと言い聞かせた。内儀さんはほとほと気息《いき》づまるように見えた。
 食事が済むと煙草を燻《くゆ》らす暇もなく、父は監督に帳簿を持って来るように命じた。監督が風呂はもちろん食事もつかっていないことを彼が注意したけれども、父はただ「うむ」と言っただけで、取り合わなかった。
 監督は一|抱《かか》えもありそうな書類をそこに持って出た。一杯機嫌になったらしい小作人たちが挨拶を残して思い思いに帰ってゆく気配が事務所の方でしていた。冷え切った山の中の秋の夜の静まり返った空気の中を、その人たちの跫音《あしおと》がだんだん遠ざかって行った。熱心に帳簿のページを繰っている父の姿を見守りながら、恐らく父には聞こえていないであ
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