立てさすつもりで談判をするなどというのは、馬鹿馬鹿しいくらい私にはいやな気持ちです」
 彼は思い切ってここまで突っ込んだ。
「お前はいやな気持ちか」
「いやな気持ちです」
「俺《わ》しはいい気持ちだ」
 父は見下だすように彼を見やりながら、おもむろに眼鏡をはずすと、両手で顔を逆《さか》なでになで上げた。彼は憤激ではち切れそうになった。
「私はあなたをそんなかただとは思っていませんでしたよ」
 突然、父は心の底から本当の怒りを催したらしかった。
「お前は親に対してそんな口をきいていいと思っとるのか」
「どこが悪いのです」
「お前のような薄ぼんやりにはわかるまいさ」
 二人の言葉はぎこちなく途切れてしまった。彼は堅い決心をしていた。今夜こそは徹底的に父と自分との間の黒白をつけるまでは夜明かしでもしよう。父はややしばらく自分の怒りをもて余しているらしかったが、やがて強いてそれを押さえながら、ぴちりぴちりと句点でも切るように話し始めた。
「いいか。よく聞いていて考えてみろ。矢部は商人なのだぞ。商売というものはな、どこかで嘘《うそ》をしなければ成り立たん性質のものなのだ。昔から士農工商というが、あれは誠と嘘との使いわけの程度によって、順序を立てたので、仕事の性質がそうなっているのだ。ちょっと見るとなんでもないようだが、古人の考えにはおろそかでないところがあるだろう。俺《わ》しは今日その商人を相手にしたのだから、先方の得手に乗せられては、みすみす自分で自分を馬鹿者にしていることになるのだ。といってからに俺《わ》しには商人のような嘘はできないのだから、無理押しにでも矢部の得手を封ずるほかはないではないか」
 彼はそんな手にはかかるものかと思った。
「そんならある意味で小作人をあざむいて利益を壟断《ろうだん》している地主というものはあれはどの階級に属するのでしょう」
「こう言えばああ言うそのお前の癖は悪い癖だぞ。物はもっと考えてから言うがいい。土地を貸し付けてその地代を取るのが何がいつわりだ」
「そう言えば商人だっていくぶん人の便利を計って利益を取っているんですね」
 理につまったのか、怒りに堪えなかったのか、父は押し黙ってしまった。禿《は》げ上がった額の生え際《ぎわ》まで充血して、手あたりしだいに巻煙草を摘《つま》み上げて囲炉裡《いろり》の火に持ってゆくその手は激しく震えていた。彼は父がこれほど怒ったのを見たことがなかった。父は煙草をそこまで持ってゆくと、急に思いかえして、そのまま畳の上に投げ捨ててしまった。
 ややしばらくしてから父はきわめて落ち着いた物腰でさとすように、
「それほど父に向かって理屈が言いたければ、立派に一人前の仕事をして、立派に一人前の生活ができたうえで言うがいい。何一つようし得ないで物を言ってみたところが、それは得手勝手というものだぞ……聞いていればお前はさっきから俺《わ》しのすることを嘘だ嘘だと言いののしっとるが、お前は本当のことを何処《どこ》でしたことがあるかい。人と生まれた以上、こういう娑婆《しゃば》にいればいやでも嘘をせにゃならんのは人間の約束事なのだ。嘘の中でもできるだけ嘘をせんようにと心がけるのが徳というものなのだ。それともお前は俺《わ》しの眼の前に嘘をせんでいい世の中を作ってみせてくれるか。そしたら俺《わ》しもお前に未練なく兜《かぶと》を脱ぐがな」
 父のこの言葉ははっしと彼の心の真唯中《まっただなか》を割って過ぎた。実際彼は刃のようなひやっとしたものを肉体のどこかに感じたように思った。そして凝り上がるほど肩をそびやかして興奮していた自分を後《うし》ろめたく見いだした。父はさらに言葉を続けた。
「こんな小さな農場一つをこれだけにするのにも俺《わ》しがどれほど苦心をしたかお前は現在見ていたはずだ。いらざる取り越し苦労ばかりすると思うかもしれんが、あれほどの用意をしても世の中の事は水が漏れたがるものでな。そこはお前のような理屈一|遍《ぺん》ではとてもわかるまいが」
 なるほどそれは彼にとっては手痛い刃だ。そこまで押しつめられると、今までの彼は何事も言い得ずに黙ってしまっていた。しかし今夜こそはそこを突きぬけよう。そして父に彼の本質をしっかり知ってもらおうと心を定めた。
「わからないかもしれません。実際あなたが東京を発《た》つ前からこの事ばかり思いつめていらっしゃるのを見ていると、失礼ながらお気の毒にさえ感じたほどでした。……私は全くそうした理想屋です。夢ばかり見ているような人間です。……けれども私の気持ちもどうか考えてください。私はこれまで何一つしでかしてはいません。自体何をすればいいのか、それさえ見きわめがついていないような次第です。ひょっとすると生涯こうして考えているばかりで暮らすのかもしれないんですが、
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