顔な愛想に対してにべなく応じた。父はすぐ元の問題に返った。
「それは早田からお聞きのことかもしれんが、おっしゃった値段は松沢農場に望み手があって折り合った値段で、村一帯の標準にはならんのですよ。まず平均一段歩二十円前後のものでしょうか」
 矢部は父のあまりの素朴さにユウモアでも感じたような態度で、にこやかな顔を見せながら、
「そりゃ……しかしそれじゃ全く開墾費の金利にも廻りませんからなあ」
 と言ったが、父は一気にせきこんで、
「しかし現在、そうした売買になってるのだから。あなた今開墾費とおっしゃったが、こうっと、お前ひとつ算盤《そろばん》をおいてみろ」
 さきほどの荒い言葉の埋合せでもするらしく、父はやや面をやわらげて彼の方を顧みた。けれども彼は父と同様珠算というものを全く知らなかった。彼がやや赤面しながらそこらに散らばっている白紙と鉛筆とを取り上げるのを見た父は、またしても理材にかけての我が子の無能さをさらけ出したのを悔いて見えた。けれども息子の無能な点は父にもあったのだ。父は永年国家とか会社銀行とかの理財事務にたずさわっていたけれども、筆算のことにかけては、極度に鈍重だった。そのために、自分の家の会計を調べる時でも、父はどうかするとちょっとした計算に半日もすわりこんで考えるような時があった。だから彼が赤面しながら紙と鉛筆とを取り上げたのは、そのまま父自身のやくざな肖像画にも当たるのだ。父は眼鏡の上からいまいましそうに彼の手許をながめやった。そして一段歩に要する開墾費のだいたいをしめ上げさせた。
「それを百二十七町四段二畝歩にするといくらになるか」
 父はなお彼の不器用な手許から眼を放さずにこう追っかけて命令した。そこで彼はもうたじろいでしまった。彼は矢部の眼の前に自分の愚かしさを暴露するのを感じつつも、たどたどしく百二十七町を段に換算して、それに四段歩を加え始めた。しかし待ち遠しそうに二人からのぞき込まれているという意識は、彼の心の落ち着きを狂わせて、ややともすると簡単な九々すらが頭に浮かび上がって来なかった。
「そこは七じゃなかろうが、四だろうが」
 父はこんな差出口をしていたが、その言葉がだんだん荒々しくなったと思うと、突然「ええ」と言って彼から紙をひったくった。
「そのくらいのことができんでどうするのか」
 明らかと怒号だった。彼はむしろ呆気《あっけ》に取られて思わず父の顔を見た。泣き笑いと怒りと入れ交ったような口惜しげな父の眼も烈しく彼を見込んでいた。そして極度の侮蔑《ぶべつ》をもって彼から矢部の方に向きなおると、
「あなたひとつお願いしましょう、ちょっと算盤《そろばん》を持ってください」
 とほとほと好意をこめたと聞こえるような声で言った。
 矢部は平気な顔をしながらすぐさま所要の答えを出してしまった。
 もうこれ以上彼のいる場所ではないと彼は思った。そしてふいと立ち上がるとかまわずに事務所の方に行ってしまった。
 座敷とは事かわって、すっかり暗くなった囲炉裡《いろり》のまわりには、集まって来た小作人を相手に早田が小さな声で浮世話をしていた。内儀《おかみ》さんは座敷の方に運ぶ膳《ぜん》のものが冷えるのを気にして、椀《わん》のものをまたもとの鍋にかえしたりしていた。彼がそこに出て行くと、見る見るそこの一座の態度が変わって、いやな不自然さがみなぎってしまった。小作人たちはあわてて立ち上がるなり、草鞋《わらじ》のままの足を炉ばたから抜いて土間《どま》に下り立つと、うやうやしく彼に向かって腰を曲げた。
「若い且那《だんな》、今度はまあ御苦労様でございます」
 その中で物慣れたらしい半白の丈《た》けの高いのが、一同に代わってのようにこう言った。「御苦労はこっちのことだぞ」そうその男の口の裏は言っているように彼には感じられた。不快な冷水を浴びた彼は改めて不快な微温湯を見舞われたのだ。それでも彼は能《あた》うかぎり小作人たちに対して心置きなく接していたいと願った。それは単にその場合のやり切れない気持ちから自分がのがれ出たかったからだ。小作人たちと自分とが、本当に人間らしい気持ちで互いに膝《ひざ》を交えることができようとは、夢にも彼は望み得なかったのだ。彼といえどもさすがにそれほど自己を偽瞞《ぎまん》することはできなかった。
 けれどもあまりといえばあんまりだった。小作人たちは、
「さあ、ずっとお寄りなさって。今日は晴れているためかめっきり冷えますから」
 と早田が口添えするにもかかわらず、彼らはあてこすりのように暗い隅っこを離れなかった。彼は軽い捨て鉢な気分でその人たちにかまわず囲炉裡《いろり》の横座にすわりこんだ。
 内儀《おかみ》さんがランプを座敷に運んで行ったが、帰って来ると父からの言いつけを彼に伝えた。それは彼が小作
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