かったのだ。この場になって、その間の父の苦心というものを考えてみないではなかった。父がこうして北海道の山の中に大きな農場を持とうと思い立ったのも、つまり彼の将来を思ってのことだということもよく知っていた。それを思うと彼は黙って親子というものを考えたかった。
「お前は夕飯はどうした」
そう突然父が尋ねた。監督はいつものとおり無表情に見える声で、
「いえなに……」
と曖昧《あいまい》に答えた。父は蒲団《ふとん》の左角にひきつけてある懐中道具の中から、重そうな金時計を取りあげて、眼を細めながら遠くに離して時間を読もうとした。
突然事務所の方で弾条《ゼンマイ》のゆるんだらしい柱時計が十時を打った。彼も自分の時計を帯の間に探ったが十時半になっていた。
「十時半ですよ。あなたまだ食わないんだね」
彼は少し父にあたるような声で監督にこう言った。
それにもかかわらず父は存外平気だった。
「そうか。それではもういいから行って食うといい。俺《わ》しもお前の年ごろの時分には、飯も何も忘れてからに夜ふかしをしたものだ。仕事をする以上はほかのことを忘れるくらいでなくてはおもしろくもないし、甘《うま》くゆくもんでもない。……しかし今夜は御苦労だった。行く前にもう一言お前に言っておくが」
そういう発端で明日矢部と会見するに当たっての監督としての位置と仕事とを父は注意し始めた。それは懇《ねんご》ろというよりもしちくどいほど長かった。監督はまた半時間ぐらい、黙ったまま父の言いつけを聞かねばならなかった。
監督が丁寧に一礼して部屋を引き下がると、一種の気まずさをもって父と彼とは向かい合った。興奮のために父の頬は老年に似ず薄紅くなって、長旅の疲れらしいものは何処《どこ》にも見えなかった。しかしそれだといって少しも快活ではなかった。自分の後継者であるべきものに対してなんとなく心置きのあるような風を見せて、たとえば懲《こら》しめのためにひどい小言を与えたあとのような気まずい沈黙を送ってよこした。まともに彼の顔を見ようとはしなかった。こうなると彼はもう手も足も出なかった。こちらから快活に持ちかけて、冗談話か何かで先方の気分をやわらがせるというようなタクトは彼には微塵《みじん》もなかった。親しい間のものが気まずくなったほど気まずいものはない。彼はほとんど悒鬱《ゆううつ》といってもいいような不愉快な
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