に取っては決して道徳的行為ではない。何故ならば、道徳的である為めには私は努力をしていなければならないからだ。
 智的生活は反省の生活であるばかりでなく努力の生活だ。人類はここに長い経験の結果を綜合《そうごう》して、相共に依拠すべき範律を作り、その範律に則《のっと》って自己を生活しなければならぬ。努力は実に人を石から篩《ふる》い分ける大事な試金石だ。動植物にあってはこの努力という生活活動は無意識的に、若しくは苦痛なる生活の条件として履行されるだろう。然し人類は努力を単なる苦痛とのみは見ない。人類に特に発達した意識的動向なる道徳性の要求を充《み》たすものとして感ぜられる。その動向を満足する為めに人類は道徳的努力を伴う苦痛を侵すことを意としない。この現われは人類の歴史を荘厳なものにする。
 誰か智的生活の所産なる知識と道徳とを讃美《さんび》しないものがあろう。それは真理に対する人類の倦《う》むことなき精進の一路を示唆する現象だ。凡《すべ》ての懐疑と凡ての破壊との間にあって、この大きな力は嘗《かつ》て磨滅したことがない。かのフェニックスが火に焼かれても、再び若々しい存在に甦《よみがえ》って、絶えず両翼を大空に向って張るように、この精進努力の生活は人類がなお地上の王なる左券《さけん》として、長くこの世に栄えるだろう。
 然し私はこの生活に無上の安立《あんりゅう》を得て、更に心の空《むな》しさを感ずることがないか。私は否と答えなければならない。私は長い廻り道の末に、尋ねあぐねた故郷を私の個性に見出した。この個性は外界によって十重二十重《とえはたえ》に囲まれているにもかかわらず、個性自身に於て満ち足らねばならぬ。その要求が成就されるまでは絶対に飽きることがない。智的生活はそれを私に満たしてくれたか。満たしてはくれなかった。何故ならば智的生活は何といっても二元の生活であるからだ。そこにはいつでも個性と外界との対立が必要とせられる。私は自然若しくは人に対して或る身構えをせねばならぬ。経験する私と経験を強《し》いる外界とがあって知識は生れ出る。努力せんとする私とその対象たる外界があって道徳は発生する。私が知識そのものではなく道徳そのものではない。それらは私と外界とを合理的に繋《つな》ぐ橋梁《きょうりょう》に過ぎない。私はこの橋梁即ち手段を実在そのものと混同することが出来ないのだ。私はまた平安を欲すると共に進歩を欲する。潤色(elaboration)を欲すると共に創造を欲する。平安は既存の事体の調節的持続であり、進歩は既存の事体の建設的破棄である。潤色は在《あ》るものをよりよくすることであり、創造は在らざりしものをあらしめることである。私はその一方にのみ安住しているに堪えない。私は絶えず個性の再造から再造に飛躍しようとする。然るに智的生活は私のこの飛躍的な内部要求を充足しているか。
 智的生活の出発点は経験である。経験とは要するに私の生活の残滓《ざんし》である。それは反省――意識のふりかえり――によってのみ認識せられる。一つの事象が知識になるためにはその事象が一たび生活によって濾過《ろか》されたということを必要な条件とする。ここに一つの知識があるとする。私がそれを或る事象の認識に役立つものとして承認するためには、縦令《たとい》その知識が他人の経験の結果によって出来上ったものであれ、私の経験もまたそれを裏書したものでなければならぬ。私の経験が若しその知識の基本となった経験と全然没交渉であったなら、私は到底それを自分の用い得る知識として承認することは出来ない筈だ。だから私の有する知識とは、要するに私の過去を整理し、未来に起り来《きた》るべき事件を取り扱う上の参考となるべき用具である。私と道徳とに於ける関係もまた全く同様な考え方によって定めることが出来る。即ち知識も道徳も既存の経験に基いて組み立てられたもので、それがそのまま役立つためには、私の生活が同一軌道を繰り返し繰り返し往来するのを一番便利とする。そしてそこには進歩とか創造とかいう動向の活躍がおのずから忌み避けられなければならない。
 私の生活が平安であること、そしてその内容が潤色されることを私は喜ばないとはいわない。私の内部にはいうまでもなくかかる要求が大きな力を以て働いている。私はその要求の達成を智的生活に向って感謝せねばならぬ。けれども私は永久にこの保守的な動向にばかり膠着《こうちゃく》して満足するだろうか。
 一個人よりも活動の遅鈍になり勝ちな社会的生活にあっては、この保守的な智的生活の要求は自然に一個人のそれよりも強い。平安無事ということは、社会生活の基調となりたがる。だから今の程度の人類生活の様式下にあっては、個人的の飛躍的動向を無視圧迫しても、智的生活の確立を希望する。現代の政治も、教育も、学術も、産業も、大体に於てはこの智的生活の強調と実践とにその目標をおいている。だから若し私がこの種の生活にのみ安住して、社会が規定した知識と道徳とに依拠していたならば、恐らく社会から最上の報酬を与えられるだろう。そして私の外面的な生存権は最も確実に保障されるだろう。そして社会の内容は益※[#二の字点、1−2−22]《ますます》平安となり、潤色され、整然たる形式の下に統合されるだろう。
 然し――社会にもその動向は朧《おぼ》ろげに看取される如く――私には智的生活よりも更に緊張した生活動向の厳存するのをどうしよう。私はそれを社会生活の為めに犠牲とすべきであるか。社会の最大の要求なる平安の為めに、進歩と創造の衝動を抑制すべきであるか。私の不満は謂《いわ》れのない不満であらねばならぬだろうか。
 社会的生活は往々にして一個人のそれより遅鈍であるとはいえ、私の持っているものを社会が全然欠いているとは思われない。何故ならば、私自身が社会を組立てている一分子であるのは間違いのないことだから。私の欲するところは社会の欲するところであるに相違ない。そして私は平安と共に進歩を欲する。潤色と共に創造を欲する。その衝動を社会は今|継子《ままこ》扱いにはしているけれども――そして社会なるものは性質上多分永久にそうであろうけれども――その何処かの一隅には必ず潜勢力としてそれが伏在していなければならぬ。社会は社会自身の意志に反して絶えず進歩し創造しつつあるから。
 私が私自身になり切る一元の生活、それを私は久しく憧《あこが》れていた。私は今その神殿に徐《おもむ》ろに進みよったように思う。

        一二

 ここまでは縦令《たとい》たどたどしいにせよ、私の言葉は私の意味しようとするところに忠実であってくれた。然《しか》しこれから私が書き連ねる言葉は、恐らく私の使役に反抗するだろう。然し縦令反抗するとも私はこれで筆を擱《お》くことは出来ない。私は言葉を鞭《むちう》つことによって自分自身を鞭って見る。私も私の言葉もこの個性表現の困難な仕事に対して蹉《つまず》くかも知れない。ここまで私の伴侶《はんりょ》であった(恐らくは少数の)読者も、絶望して私から離れてしまうかも知れない。私はその時読者の忍耐の弱さを不満に思うよりも私自身の体験の不十分さを悲しむ外《ほか》はない。私は言葉の堕落をも尤《とが》めまい。かすかな暗示的表出をたよりにしてとにかく私は私自身を言い現わして見よう。
 無元から二元に、二元から一元に。保存から整理に、整理から創造に。無努力から努力に、努力から超努力に。これらの各※[#二の字点、1−2−22]の過程の最後のものが今表現せらるべく私の前にある。
 個性の緊張は私を拉《らつ》して外界に突貫せしめる。外界が個性に向って働きかけない中《うち》に、個性が進んで外界に働きかける。即ち個性は外界の刺戟《しげき》によらず、自己必然の衝動によって自分の生活を開始する。私はこれを本能的生活(impulsive life)と仮称しよう。
 何が私をしてこの衝動に燃え立たせるか。私は知らない。然し人は自然界の中にこの衝動の仮りの姿を認めることが出来ないだろうか。
 地球が造られた始めにはそこに痕跡《こんせき》すら有機物は存在しなかった。そこに、或る時期に至って有機物が現われ出た。それは或る科学者が想像するように他の星体から隕石《いんせき》に混入して地表に齎《もたら》されたとしても、少くとも有機物の存在に不適当だった地球は、いつの間にかその発達にすら適合するように変化していたのだ。有機物の発生に次いで単細胞の生物が現われ出た。そして生長と分化とが始まった。その姿は無機物の結晶に起る成長らしい現象とは多くの点に於て相違していた。単細胞生物はやがて複細胞生物となり、一は地上に固着して植物となり、一は移動性を利用して動物となった。そして動物の中から人類が発生するまでに、その進化の過程には屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》創造と称せらるべき現象が続出した。続出したというよりも凡《すべ》ての過程は創造から創造への連続といっていい。習性及び形態の保存に固着してカリバンのように固有の生活にしがみ附こうとする生物を或る神秘な力が鞭《むちう》ちつつ、分化から分化へと飛躍させて来た。誰がこの否む可《べか》らざる目前の事実に驚異せずにはいられよう。地上の存在をかく導き来った大きな力はまた私の個性の核心を造り上げている。私の個性は或る已《や》みがたい力に促されて、新たなる存在へ躍進しようとする。その力の本源はいつでも内在的である。内発的である。一つの花から採取した月見草の種子が、同一の土壌に埋められ、同一の環境の下に生《お》い出《いで》ても、多様多趣の形態を取って萠《も》え出ずるというドフリスの実験報告は、私の個性の欲求をさながらに翻訳《ほんやく》して見せてくれる。若《も》しドフリスの Mutation Theory が実験的に否認される時が来たとしても、私の個性は、それは単にドフリスの実験の誤謬《ごびゅう》であって、自然界の誤謬ではないと主張しよう。少くとも地球の上には、意識的であると然らざるとに係わらず、個性認識、個性創造の不思議な力が働いているのだ。ベルグソンのいう純粋持続に於ける認識と体験は正《まさ》しく私の個性が承認するところのものだ。個性の中には物理的の時間を超越した経験がある。意識のふりかえりなる所謂《いわゆる》反省によっては掴《つか》めない経験そのものが認識となって現われ出る。そこにはもう自他の区別はない。二元的な対立はない。これこそは本当の生命の赤裸々な表現ではないかB私の個性は永くこの境地への帰還にあこがれていたのだ。
 例えば大きな水流を私は心に描く。私はその流れが何処《いずこ》に源を発し、何処に流れ去るのかを知らない。然しその河は漾々《ようよう》として無辺際から無辺際へと流れて行く。私は又その河の両岸をなす土壌の何物であるかをも知らない。然しそれはこの河が億劫《おくごう》の年所《ねんしょ》をかけて自己の中から築き上げたものではなかろうか。私の個性もまたその河の水の一滴だ。その水の押し流れる力は私を拉して何処かに押し流して行く。或る時には私は岸辺近く流れて行く。そして岸辺との摩擦によって私を囲む水も私自身も、中流の水にはおくれがちに流れ下る。更に或る時は、人がよく実際の河流で観察し得るように、中流に近い水の速力の為めに蹴押《けお》されて逆流することさえある。かかる時に私は不幸だ。私は新たなる展望から展望へと進み行くことが出来ない。然し私が一たび河の中流に持ち来《きた》されるなら、もう私は極《きわ》めて安全でかつ自由だ。私は河自身の速力で流れる。河水の凡てを押し流すその力によって私は走っているのだけれども、私はこの事実をすら感じない。私は自分の欲求の凡てに於て流れ下る。何故ならば、河の有する最大の流速は私の欲求そのものに外ならないから。だから私は絶対に自由なのだ。そして両岸の摩擦の影響を受けねばならぬ流域に近づくに従って、私は自分の自由が制限せられて来るのを苦々《にがにが》しく感じなければならない。そこに始め
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