試みは一時的に多少私の不安を撫《な》でさすってくれたとしても、更に深い不安に導く媒《なかだち》になるに過ぎなかった。私はかかる試みをする始めから、何かどうしてもその境遇では満足し得ない予感を持ち、そしてそれがいつでも事実になって現われた。私はどうしてもそれらのものの前に at home に自分自身を感ずることが出来なかった。
それは私が大胆でかつ誠実であったからではない。偽善者なる私にも少しばかりの誠実はあったと云えるかも知れない。けれど少くとも大胆ではなかった。私は弱かったのだ。
誰でも弱い人がいかなる心の状態にあるかを知っている。何物にも信頼する事の出来ないのが弱い人の特長だ。しかも何物にか信頼しないではいられないのが他の特長だ。兎《うさぎ》は弱い動物だ。その耳はやむ時なき猜疑《さいぎ》に震えている。彼は頑丈《がんじょう》な石窟《せっくつ》に身を託する事も、幽邃《ゆうすい》な深林にその住居を構えることも出来ない。彼は小さな藪《やぶ》の中に彼らしい穴を掘る。そして雷が鳴っても、雨が来ても、風が吹いても、犬に追われても、猟夫に迫られても、逃げ廻った後にはそのみじめな、壊《こわ》れ易い土の穴に最後の隠れ家を求めるのだ。私の心もまた兎のようだ。大きな威力は無尽蔵に周囲にある。然し私の怯《おび》えた心はその何れにも無条件的な信頼を持つことが出来ないで、危懼《きく》と躊躇とに満ちた彷徨の果てには、我ながら憐れと思う自分自分に帰って行くのだ。
然し私はこれを弱いものの強味と呼ぶ。何故といえば私の生命の一路はこの極度の弱味から徐《おもむ》ろに育って行ったからだ。
ここまで来て私は自ら任じて強しとする人々と袖《そで》を別たねばならぬ。その人々はもう私に呆《あき》れねばならぬ時が来た。私はしょうことなしに弱さに純一になりつつ、益※[#二の字点、1−2−22]強い人々との交渉から身を退けて行くからだ。ニイチェは弱い人だった。彼もまた弱い人の通性として頑固に自分に執着した。そこから彼の超人の哲学は生れ出たが、そしてそれは強い人に恰好な背景を与える結果にはなったが、それを解して彼が強かったからだと思うのは大きな錯誤といわねばならぬ。ルッソーでもショーペンハウエルでも等しくそうではなかったか。強い人は幸にして偉人となり、義人となり、君子となり、節婦となり、忠臣となる。弱い人はまた幸にして一個の尋常な人間となる。それは人々の好き好きだ。私は弱いが故に後者を選ぶ外《ほか》に途《みち》が残されていなかったのだ。
運命は畢竟不公平であることがない。彼等には彼等のものを与え、私には私のものを与えてくれる。しかも両者は一度は相失う程に分れ別れても、何時《いつ》かは何処かで十字路頭にふと出遇《であ》うのではないだろうか。それは然し私が顧慮するには及ばないことだ。私は私の道を驀地《まっしぐら》に走って行く外はない。で、私は更にこの筆を続けて行く。
六
私の個性は私に告げてこう云う。
私はお前だ。私はお前の精髄だ。私は肉を離れた一つの概念の幽霊ではない。また霊を離れた一つの肉の盲動でもない。お前の外部と内部との溶け合った一つの全体の中に、お前がお前の存在を有《も》っているように、私もまたその全体の中で厳《きび》しく働く力の総和なのだ。お前は地球の地殻のようなものだ。千態万様の相に分れて、地殻は目まぐるしい変化を現じてはいるが、畢竟《ひっきょう》そこに見出されるものは、静止であり、結果であり、死に近づきつつあるものであり、奥行のない現象である。私は謂《い》わば地球の外部だ。単純に見るとそこには渾沌《こんとん》と単一とがあるばかりとも思われよう。けれどもその実質をよく考えてみると、それは他の星の世界と同じ実質であり、その中に潜む力は一瞬時にして、地殻を思いのままに破壊することも出来、新たに地表を生み出すことも出来るのだ。私とお前とは或る意味に於《おい》て同じものだ。然し他の意味に於て較べものにならない程違ったものだ。地球の内部は外部からは見られない。外部から見て、一番よく気のつく所は何といっても表面だ。だから人は私に注意せずに、お前ばかりを見て、お前の全体だと窺《うかが》っているし、お前もまたお前だけの姿を見て、私を顧みず、恐れたり、迷ったり、臆したり、外界を見るにもその表面だけを伺って満足している。私に帰って来ない前にお前が見た外界の姿は誠の姿ではない。お前は私が如何なるものであるかを本当に知らない間は、お前の外界を見る眼はその正しい機能を失っているのだ。それではいけない。そんなことでは縦令《たとい》お前がどれ程|齷齪《あくせく》して進んで行こうとも、急流を遡《さかのぼ》ろうとする下手《へた》な泳手のように、無益に藻掻《もが》いてしかも一歩も進んではいないのだ。地球の内部が残っていさえすれば、縦令地殻が跡形なく壊《こわ》れてしまっても、一つの遊星としての存在を続ける事が出来るのだ。然し内部のない地球というものは想像して見ることも出来ないだろう。それと同じに私のないお前は想像することが出来ないのだ。
お前に取って私以上に完全なものはない。そういったとて、その意味は、世の中の人が概念的に案出する神や仏のように、完全であろうというのではない。お前が今まで、宗教や、倫理や、哲学や、文芸などから提供せられた想像で測れば、勿論《もちろん》不完全だということが出来るだろう。成程私は悪魔のように恥知らずではないが、又天使のように清浄でもない。私は人間のように人間的だ。私の今のこの瞬間の誇りは、全力を挙げて何の躊躇もなく人間的であるということに帰する。私の所に悪魔だとか天使だとか、お前の頭の中で、こね上げた偶像を持って来てくれるな。お前が生きなければならないこの現在にとって、それらのものとお前との間には無益有害な広い距離が挾《はさ》まっている。
お前が私の極印を押された許可状を持たずに、霊から引放した肉だけにお前の身売りをすると、そこに実質のない悪魔というものが、さも厳《いか》めしい実質を備えたらしく立ち現われるのだ。又お前が肉から強《し》いて引き離した霊だけに身売りをすると、そこに実質のない天使というものが、さも厳めしい実質を備えたらしく立ち現われるのだ。そんな事をしてる中《うち》に、お前は段々私から離れて行って、実質のない幻影に捕えられ、そこに、奇怪な空中楼閣を描き出すようになる。そして、お前の衷《うち》には苦しい二元が建立《こんりゅう》される。霊と肉、天国と地獄、天使と悪魔、それから何、それから何……対立した観念を持ち出さなければ何んだか安心が出来ない、そのくせ観念が対立していると何んだか安心が出来ない、両|天秤《てんびん》にかけられたような、底のない空虚に浮んでいるような不安がお前を襲って来るのだ。そうなればなる程お前は私から遠ざかって、お前のいうことなり、思うことなり、実行することなりが、一つ残らず外部の力によって支配されるようになる。お前には及びもつかぬ理想が出来、良心が出来、道徳が出来、神が出来る。そしてそれは、皆私がお前に命じたものではなくて、外部から借りて来たものばかりなのだ。そういうものを振り廻して、お前はお前の寄木細工《よせぎざいく》を造り始めるのだ。そしてお前は一面に、悪魔でさえが眼を塞《ふさ》ぐような醜い賤《いや》しい思いをいだきながら、人の眼につく所では、しらじらしくも自分でさえ恥かしい程立派なことをいったり、立派なことを行《おこな》ったりするのだ。しかもお前はそんな蔑《さげす》むべきことをするのに、尤《もっと》もらしい理由をこしらえ上げている。聖人や英雄の真似《まね》をするのは――も少し聞こえのいい言葉|遣《づか》いをすれば――聖人や英雄の言行を学ぶのは、やがて聖人でもあり英雄でもある素地を造る第一歩をなすものだ。我れ、舜《しゅん》の言を言い、舜の行を行わば、即《すなわ》ち舜のみというそれである。かくして、お前は心の隅《すみ》に容易ならぬ矛盾と、不安と、情なさとを感じながら、益※[#二の字点、1−2−22]《ますます》高く虚妄《きょもう》なバベルの塔を登りつめて行こうとするのだ。
悪いことには、お前のそうした態度は、社会の習俗には都合よくあてはまって行く態度なのだ。人間の生活はその欲求の奥底には必ず生長という大事な因子を持っているのだけれども、社会の習俗は平和――平和というよりも単なる無事に執着しようとしている。何事もなく昨日の生活を今日に繋《つな》ぎ、今日の生活を明日に延ばすような生活を最も面倒のない生活と思い、そういう無事の日暮しの中に、一日でも安きを偸《ぬす》もうとしているのだ。これが社会生活に強い惰性となって膠着《こうちゃく》している。そういう生活態度に適応する為めには、お前のような行き方は大変に都合がいい。お前の内部にどれ程の矛盾があり表裏があっても、それは習俗的な社会の頓着《とんちゃく》するところではない。単にお前が殊勝な言行さえしていれば、社会は無事に治まって泰平なのだ。社会はお前を褒《ほ》めあげて、お前に、お前が心|窃《ひそ》かに恥じねばならぬような過大な報償を贈ってよこす。お前は腹の中で心苦しい苦笑いをしながらも、その過分な報償に報ゆるべく益※[#二の字点、1−2−22]私から遠ざかって、心にもない犬馬の労を尽しつつ身を終ろうとするのだ。
そんなことをして、お前が外部の圧迫の下に、虚偽な生活を続けている間に、何時しかお前は私をだしぬいて、思いもよらぬ聖人となり英雄となりおおせてしまうだろう。その時お前はもうお前自身ではなくなって、即ち一個の人間ではなくなって、人間の皮を被《かぶ》った専門家になってしまうのだ。仕事の上の専門家を私達は尊敬せねばならぬ。然し生活の習俗性の要求にのみ耳を傾けて、自分を置きざりにして、外部にのみ身売りをする専門家は、既に人間ではなくして、いかに立派でも、立派な一つの機械にしか過ぎない。
いかにさもしくとも力なくとも人間は人間であることによってのみ尊い。人間の有する尊さの中、この尊さに優《まさ》る尊さを何処に求め得よう。この尊さから退くことは、お前を死滅に導くのみならず、お前の奉仕しようとしている社会そのものを死滅に導く。何故ならば人間の社会は生きた人間に依ってのみ造り上げられ、維持され、存続され、発達させられるからだ。
お前は機械になることを恥じねばならぬ。若し聊《いささ》かでもそれを恥とするなら、そう軽はずみな先き走りばかりはしていられない筈《はず》だ。外部ばかりに気を取られていずに、少しは此方《こちら》を向いて見るがいい。そして本当のお前自身なるお前の個性がここにいるのを思い出せ。
私を見出したお前は先ず失望するに違いない、私はお前が夢想していたような立派な姿の持主ではないから。お前が外部的に教え込まれている理想の物指《ものさし》にあてはめて見ると、私はいかにも物足らない存在として映るだろう。私はキャリバンではない代りにエーリヤルでもない。悪魔ではない代りに天使でもない。私にあっては霊肉というような区別は全く無益である。また善悪というような差別は全く不可能である。私は凡ての活動に於て、全体として生長するばかりだ。花屋は花を珍重するだろう。果物屋は果実を珍重するだろう。建築家はその幹を珍重するだろう。然し桜の木自身にあっては、かかる善悪差別を絶したところにただ生長があるばかりだ。然し私の生長は、お前が思う程|迅速《じんそく》なものではない。私はお前のように頭だけ大きくしたり、手脚《てあし》だけ延ばしたりしただけでは満足せず、その全体に於て動き進まねばならぬからだ。理想という疫病に犯されているお前は、私の歩き方をもどかしがって、生意気にも私をさしおいて、外部の要求にのみ応じて、先き走りをしようとするのだ。お前は私より早く走るようだが、畢竟は遅く走っているのだ。何故といえば、お前が私を出し抜いて、外部の刺戟《しげき》ばかりに身を任せて走り出して、何処か
前へ
次へ
全18ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング