も》え出ずるというドフリスの実験報告は、私の個性の欲求をさながらに翻訳《ほんやく》して見せてくれる。若《も》しドフリスの Mutation Theory が実験的に否認される時が来たとしても、私の個性は、それは単にドフリスの実験の誤謬《ごびゅう》であって、自然界の誤謬ではないと主張しよう。少くとも地球の上には、意識的であると然らざるとに係わらず、個性認識、個性創造の不思議な力が働いているのだ。ベルグソンのいう純粋持続に於ける認識と体験は正《まさ》しく私の個性が承認するところのものだ。個性の中には物理的の時間を超越した経験がある。意識のふりかえりなる所謂《いわゆる》反省によっては掴《つか》めない経験そのものが認識となって現われ出る。そこにはもう自他の区別はない。二元的な対立はない。これこそは本当の生命の赤裸々な表現ではないかB私の個性は永くこの境地への帰還にあこがれていたのだ。
例えば大きな水流を私は心に描く。私はその流れが何処《いずこ》に源を発し、何処に流れ去るのかを知らない。然しその河は漾々《ようよう》として無辺際から無辺際へと流れて行く。私は又その河の両岸をなす土壌の何物であるかをも知らない。然しそれはこの河が億劫《おくごう》の年所《ねんしょ》をかけて自己の中から築き上げたものではなかろうか。私の個性もまたその河の水の一滴だ。その水の押し流れる力は私を拉して何処かに押し流して行く。或る時には私は岸辺近く流れて行く。そして岸辺との摩擦によって私を囲む水も私自身も、中流の水にはおくれがちに流れ下る。更に或る時は、人がよく実際の河流で観察し得るように、中流に近い水の速力の為めに蹴押《けお》されて逆流することさえある。かかる時に私は不幸だ。私は新たなる展望から展望へと進み行くことが出来ない。然し私が一たび河の中流に持ち来《きた》されるなら、もう私は極《きわ》めて安全でかつ自由だ。私は河自身の速力で流れる。河水の凡てを押し流すその力によって私は走っているのだけれども、私はこの事実をすら感じない。私は自分の欲求の凡てに於て流れ下る。何故ならば、河の有する最大の流速は私の欲求そのものに外ならないから。だから私は絶対に自由なのだ。そして両岸の摩擦の影響を受けねばならぬ流域に近づくに従って、私は自分の自由が制限せられて来るのを苦々《にがにが》しく感じなければならない。そこに始め
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