、公平な観察者鑑賞者となって、両極の持味を髣髴《ほうふつ》して死のう。
 人間として持ち得る最大な特権はこの外にはない。この特権を捨てて、そのあとに残されるものは、捨てるにさえ値しない枯れさびれた残り滓《かす》のみではないか。

        五

 けれども私はそこにも満足を得ることが出来なかった。私は思いもよらぬ物足らぬ発見をせねばならなかった。両極の観察者になろうとした時、私の力はどんどん私から遁《のが》れ去ってしまったのだ。実験のみをしていて、経験をしない私を見出《みいだ》した時、私は何ともいえない空虚を感じ始めた。私が触れ得たと思う何《いず》れの極も、共に私の命の糧《かて》にはならないで、何処《いずこ》にまれ動き進もうとする力は姿を隠した。私はいつまでも一箇所に立っている。
 これは私として極端に堪えがたい事だ。かのハムレットが感じたと思われる空虚や頼りなさはまた私にも存分にしみ通って、私は始めて主義の人の心持を察することが出来た。あの人々は生命の空虚から救い出されたい為めに、他人の自由にまで踏み込んでも、力の限りを一つの極に向って用いつつあるのだ。それは或る場合には他人にとって迷惑なことであろうとも、その人々に取っては致命的に必要なことなのだ。主義の為めには生命を捨ててもその生命の緊張を保とうとするその心持はよく解る。
 然しながら私には生命を賭《と》しても主張すべき主義がない。主義というべきものはあるとしても、それが為めに私自身を見失うまでにその為めに没頭することが出来ない。
 やはり私はその長い廻り道の後に私に帰って来た。然し何というみじめな情ない私の姿だろう。私は凡てを捨ててこの私に頼らねばならぬだろうか。私の過去には何十年の遠きにわたる歴史がある。又私の身辺には有らゆる社会の活動と優《すぐ》れた人間とがある。大きな力強い自然が私の周囲を十重二十重《とえはたえ》に取り巻いている。これらのものの絶大な重圧は、この憐《あわ》れな私をおびえさすのに十分過ぎる。私が今まで自分自身に帰り得ないで、有らん限りの躊躇《ちゅうちょ》をしていたのも、思えばこの外界の威力の前に私自身の無為を感じていたからなのだ。そして何等かの手段を運《めぐ》らしてこの絶大の威力と調和し若しくは妥協しようとさえ試みていたのだった。しかもそれは私の場合に於ては凡て失敗に終った。そういう
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