としてもとの自己に眼覚《めざ》める程緊張したならばその時彼は本能的生活の圏内に帰還しているのだ。だから智的生活の圏内に於ける生活にあってこそ、知識も道徳もなくて叶《かな》わぬものであるが、本能的生活の葛藤《かっとう》にあっては、智的生活の生んだ規範は、単にその傷を醜く蔽《おお》う繃帯《ほうたい》にすらあたらぬことを知るだろう)。その時精神は精神ではなく、肉慾は肉慾ではない。両者は全くその区別を没して、愛の統流の中に溶けこんでしまう。単なる形の似よりから凡ての現われと同じものと見るのは、甚《はなはだ》しき愚昧《ぐまい》な見断である。
この一つの例は私の本能に対する見解を朧《おぼ》ろげながらも現わし得たではなかろうか。かくの如く本能は、全体的なそして内部的な個性の要求だ。然るに智的生活はこれとは趣きを異にしている。縦令智的生活は、長い間かかった、多くの人の経験の集成から成り立つものだとはいえ、その個性に働く作用はいつでも外部からであって、しかも部分的である。その外部的である訳は、それが誰の内部生活からも離れて組み立てられたものであるからだ。それは生活の全部を統率するために、人間によって約束された規範であるからだ。それなら何故部分的であるか。智的生活にあっては義務と努力とが必要な条件として申し出られているからだ。義務にも努力にも、人間の欲求の或る部分の棄捨が予想されている。或る欲求を圧抑するという意識なしには、義務も努力も実行されはしない。即ち個性の全要求の満足という事は行われ得ない約束にある。若しかかる約束にある智的生活が生活の基調をなし、指導者とならなければならぬとしたら、人間は果して晏如《あんじょ》としていることが出来るだろうか。私としてはそれを最上のものとして安んじていることが出来ない。私はその上に、私の個性の全要求を満足し、しかもその満足が同時によいことであるべき生活を追い求めるだろう。そしてそれは本能的生活に於《おい》て与えられるのだ。本能的生活によって智的生活は内面化されなければならぬ。本能的生活によって智的生活は統合化されなければならぬ。かくいえば、私が、本能的生活は智的生活を指導せねばならぬと主張した理由が明かになると思う。
然らば社会生活は私がいった個人の生活過程を逆にでも行かねばならぬというのか。社会生活にあっては、智的生活をもって本能的生活の指
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