風のためとか、一日も安閑としてはいられない漁夫の生活にも、なす事なく日を過ごさねばならぬ幾日かが、一年の間にはたまに来る。そういう時に、君は一冊のスケッチ帳(小学校用の粗雑な画学紙を不器用に網糸でつづったそれ)と一本の鉛筆とを、魚の鱗《うろこ》や肉片がこびりついたまま、ごわごわにかわいた仕事着のふところにねじ込んで、ぶらりと朝から家を出るのだ。
「会う人はおら事気違いだというんです。けんどおら山をじっ[#「じっ」に傍点]とこう見ていると、何もかも忘れてしまうです。だれだったか何かの雑誌で『愛は奪う』というものを書いて、人間が物を愛するのはその物を強奪《ふんだく》るだと言っていたようだが、おら山を見ていると、そんな気は起こしたくも起こらないね。山がしっくり[#「しっくり」に傍点]おら事引きずり込んでしまって、おらただあきれて見ているだけです。その心持ちがかいてみたくって、あんな下手《へた》なものをやってみるが、からだめです。あんな山の心持ちをかいた絵があらば、見るだけでも見たいもんだが、ありませんね。天気のいい気持ちのいい日にうん[#「うん」に傍点]と力こぶを入れてやってみたらと思うけ
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